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ポポリンピック―大切なものを大切にすることの大切さ、そして難しさ

2020年1月12日(日)、こまばアゴラ劇場で、ゴジゲン第16回公演「ポポリンピック」を観てきた。
今年8月に開幕する東京オリンピックから着想を得た「選ばれなかった男たちの物語」だという。
ゴジゲンメンバー6人(松居大悟、目次立樹、東迎昂史郎、奥村徹也、本折最強さとし、善雄善雄)に加え、客演で劇団献身の木村圭介が参加、7人態勢での舞台となった。

これまでのゴジゲン作品は、アパートの一室や部室などの空間で繰り広げられる私的な人間模様をモチーフにすることが多かった印象だ。しかし今回の脚本では、オリンピックという巨大プロジェクトを背景に、社会や不特定多数の人間からの評価に翻弄される者たちが描かれている。私的な幸福の追求だけでなく、社会的評価への欲求というテーマも盛り込んだストーリーを知った時は、ゴジゲンが新たなフェーズに入ったと感じた。
とは言っても、お家芸「男たちのわちゃわちゃ」は健在。社会派っぽさが加わってもコメディ要素がしっかり用意されているので、客席全体に笑いが起こる瞬間も度々あり、肩肘張らずに見られた。

<<<<<<この先ネタバレあり>>>>>>

あらすじ(私の記憶が確かならば…)

照明が点くと、3人の男が中央の辺りに寄り集まって立っており、目をギラつかせながら一点を見つめている。何が始まるのか…一気に引き込まれる。やがてもう一人のキャストが登場し、彼らがボウリング関係者であること、視線の先にあるテレビでオリンピック競技の発表が行われていることが明らかになる。

ここで話は過去へと遡る。語られるのは、主人公ポポ(目次立樹)の半生。
ボウリング場に捨てられていたポポは、ボウリング場のオーナー夫妻のもとで育てられる。ポポはピンたちと心で会話ができ、ボールを何回投げてもストライクしか出さない。やがてマスコミはポポを「天才少年」ともてはやし、世間は彼の才能と「お母さんに会いたい」と語る健気さに熱狂する。
しかしポポが成長するにつれ、人々は「ストライクばかりだと絵としてつまらない」と言って飽き始め、オーナー夫妻も広告塔として価値のなくなったポポを追い出す。路頭に迷った彼を救ったのは、心優しいボウリングコーチ(本折最強さとし)と、彼が所属するボウリング場のオーナー・花菱(善雄善雄)だった。花菱ボウルで仕事を得、応援してくれる映像作家(松居大悟)やボルダリング選手の則夫(東迎昂史郎)にも出会い、自分の居場所を見つけたポポ。

特に、友達のいなかった自分に屈託なく接してくれる則夫の登場は、ポポにとって大きな喜びだった。ある日、則夫はポポを自分の好きな高台へと連れてゆき、二人は空や眼下に広がる街、鳥の声を堪能する。しょうもない下ネタも交えつつ、とりとめのない話をする二人。ボルダリングを愛し、勝利や競技の普及への情熱を語る則夫の真っ直ぐな姿に、ポポは感銘を受ける。
しかし、ポポの実力に嫉妬するライバルのリトル・ジョン(木村圭介←巨体なのに「リトル」…)は、「ストライクばかりじゃ盛り上がらないだろう?」とポポに耳打ちし、自分に有利な試合運びになるよう働きかけて優勝する。居場所を失いたくないポポは、プレーヤーとして本気を出せなくなってしまう。

ある日、ポポたちのもとに、新聞記者(奥村徹也)が訪ねてくる。ボウリングがオリンピック種目になる可能性が出てきたので、取材したいと語る記者。コーチ、花菱、リトル・ジョンは色めき立つが、ポポは困惑する。「金メダルへの意気込みをどうぞ!」という記者の質問に、ポポは「金メダルを取ったら、生きていてもいいですか?」と答えるのだった。

しかし最終的に、ボウリングはオリンピック競技から外されてしまった。次こそは選ばれたい―ポポの周囲の人々は、四年後に向けて署名集めに走ったり、ロビー活動を始めたり、それぞれに動き出す。映像作家は「バズる」動画を作って若者たちにボウリングの魅力を訴求しようと提案し、その流れでポポはユーチューバーになる。だが「いいね!」やフォロワーの数は伸び悩み、手応えを感じられないまま時間だけが過ぎてゆく。

一方、則夫が人生を懸けていたボルダリングは、最後の最後でオリンピック競技に追加された。日の丸を背負ってオリンピックに出場した則夫は、見事銀メダルに輝き、時代の寵児となる。
しかしその結果、則夫はボルダリング普及のための広告塔として生きることを余儀なくされる。マスコミの注目を集めるため、過去を偽り、インタビューで「お母さんに会いたい」と嘘をつく則夫。それをテレビ越しに見たポポは、自分に正直に生きていたかつての則夫との落差に衝撃を受ける。
そしてリトル・ジョンは、ホームレスになっていた。ポポと街で偶然会うも、かつての傲慢さは消え、怯えた様子でどこかへと去ってゆく。

ポポたちの活動が成果を出せずにいる中、久々に再会した新聞記者は、こんな言葉を口にした。「選ばれようとすること自体、ダサい」。これに触発され、ポポたちは「選ばれなかったら自分で作ればいいんだ!」という考えに辿り着く。かくして、オリンピック競技に選ばれなかったスポーツの祭典「ポポリンピック」の計画が動き出した。

ポポリンピックの話題は徐々に広まり、やがて世間の注目を集めるようになる。
しかしニュースでは、ポポリンピック関係者が反オリンピック集団であるかのように報道され、ポポリンピック公式アカウントのフォロワーにも過激派が加わり始める。
オリンピックに反対するわけではないと明確に発信したいポポだったが、「バズった」ことで気が大きくなったポポリンピック関係者たちは、せっかくフォロワーも増えたし、どうせならデカいことをやってやろうと暴走してゆく。

そんな折、ポポは街中で偶然、則夫を見つける。一緒にいたポポリンピック関係者と共に、則夫を追うポポ。
なぜインタビューで嘘を言ったのかと尋ねるポポに、則夫は立場上仕方がないのだと声を荒らげ、ポポと周囲の数人を軽く突き飛ばして去ってゆく。
ずっとカメラを回していた映像作家が、すかさずナレーションを入れた。「何ということでしょう…ポポリンピック関係者が、則夫選手に暴力を振るわれ、倒れています!」「ポポ選手の右手の指が、折られています!」

その動画は瞬く間に拡散され、世間は銀メダリストの暴行というニュースに飛び付く。
ポポリンピック関係者たちは記者会見を開き、実際には傷一つないポポの右手に包帯を巻いて、こう書かれた台本を渡す。
「私は、則夫選手に指を折られ、二度とボウリングができなくなりました」
「オリンピック当日、ポポリンピック関係者は、スタジアム前で行動を起こします」

結局、ポポは抗うことができず、か細い声で原稿通りに喋った後「お母さんに会いたい…」と呟く。

会見の模様はテレビとネットで中継され、過激になってしまったポポリンピック関係者たちは、人々の反応に勢いづく。
片隅でひっそりと肩を落とすポポに、花菱が囁く。「もう、行っていいぞ」。花菱の中には、まだ良心が残っていた。ポポは一人、部屋を出てゆく。
そして会見からしばらくして、則夫引退のニュースが流れた。

ポポの行く手に、学ラン姿の男子学生が3人、ボウリングをして遊んでいた。ポポの視線に気づいた一人は「何だお前?」と絡む。
ポポはボールを手に取り、ピンに向かって投げるが、数本のピンが倒れずに残ってしまった。能力を失ってしまったことに気付いたポポは愕然とし、泣き叫ぶ。
「何でそんながっかりしてんだよー?」一人の男子がボールを拾い上げ、投げた。「ちくしょー、倒れなかったー!」。3人が結果を気にしながらも、わいわい言いながら楽しく過ごすのを見ているうちに、ポポは何かに気付く。
「それも、ボウリング!」
ぽかんとする男子学生たちを残し、ポポは満面の笑みで走り出した。

則夫が高台でワンカップ酒を煽っていると、ポポが岩をよじ登ってくる。空はあの日と同じように綺麗で、鳥が鳴いていた。(高台で2人きり…元ネタは「耳をすませば」か?)
ポポが話しかける。かつての下ネタ。そして…「スポッチャでも行く?」苦笑する則夫。
立場やしがらみに縛られ、自由に生きられなくなっていた2人の心が、再び通じ合った。

オリンピック開会式当日。ポポは、ポポリンピック関係者との約束通り、スタジアム前に登場する。
雄叫びを上げる人々に、ポポは静かに語りかける。
「空を見上げて、耳を澄ませてください…」
静寂。
やがて、スタジアムからの歓声が、小さく聞こえてきた。

どうでもいいシーンを無駄に長くして笑いに変える

「ポポリンピック」は、ストーリ―だけ書くとまるで真面目な演劇のようだが、実際は何度も笑いが起こる場面がある。こういう場面は大体、筋を伝えるだけなら1分で済むところに10分ぐらい費やしているため、あらすじには現れないのだ(実際に舞台を見て確かめてもらうしかない…)。

例えば、ボウリング協会から、オリンピック競技の選考結果がメールで連絡されるシーン。みんなメールを開くのが怖く、「見てよ」「いや、見てくださいよ」とスマホを押し付け合う。「開いた…」「どうでした!?」「PDFだった…」「どうでもいいよ」「で、何て書いてありました?」「見てない…」「えーーー!!」この調子で5分以上わちゃわちゃする男たち。
また、ポポが則夫を追うシーン(カーチェイス)では、役者たちが2人ずつ3列に座り、「うおー」などと叫びながら体を同じ方向に倒したり、服の裾を手で持ってピラピラさせたりすることで疾走感を表現。動きの間抜けっぷりも、「追う→追いつく」だけでいいのに必要以上に長くするところも笑える。

「選ばれなかった男たちの物語」と聞くと、辛くて見ていられない気がする人も多いだろう。しかしこの、一見時間の無駄でしかないシーンのお陰で、客席の私は不覚にも「楽しい」と感じてしまった。これは前に見たミュージカル「ミス・サイゴン」に近い…主人公キムの人生だけだと救いがなさすぎるけど、エンジニアという準主役の能天気さがあるから何とか見ていられる、あの感じ。

今思い返すと、笑っている瞬間には感じなかった切なさが立ち現れてくる。みんな、選ばれなかったなりに、頑張ったんだよなぁ。傍から見たら、滑稽でも。

ポポにとっての「ボウリング」とは?

幼少時代のポポにとって、ボウリングはピンとの会話を通じて孤独を紛らわす手段であり、自分を棄てた母親との繋がりを感じられるものだった。「天才少年」として注目を浴びてからは、ボウリングはマスコミを楽しませ、義理の両親という居場所を繋ぎ止めるための、生活手段とでも言うべきものだった(ちょっと「三月のライオン」っぽい)。しかし、世間から「つまらない」と言われるパフォーマンスしかできなかった彼は、幼いビジュアルを失った途端にマスコミにそっぽを向かれ、義理の両親にも棄てられる。

だが、ボウリングを深く愛するコーチや花菱と出会い、ポポにとってのボウリングの意味が変わったように思える。ボウリングは、孤独を紛らわすためのもの、生活手段として割り切ってやるものから、単なる勝ち負けを越えて誰かと熱狂を分かち合うためのものになった。花菱ボウルで過ごした日々の中で、ポポは初めて心からボウリングを楽しみ、愛することができたのではないだろうか。

しかし、ボウリングが「華がない」という理由でオリンピック競技に入れてもらえなかったことで、花菱ボウルの人々は、自分の愛するものの素晴らしさを世間に知らしめたいと思うようになる。IOCに選ばれるための活動にのめり込むうちに、彼らにとってのボウリング、そしてその延長線上のポポリンピック計画は、社会的地位を得る手段へと変わってゆく。
やがて、彼らの活動の趣旨は、「(ボウリングをはじめ)オリンピック競技に選ばれなかったスポーツだって、こんなに楽しいんですよ」というメッセージを発信することから、より多くの人間を巻き込んでセンセーションを起こすことに移ってゆく。自分たちを理解しなかった奴らを見返してやりたいという思いが暴走し、活動の本質が失われてしまったのだ。
ポポの会見のシーンで、おろおろと原稿を読むポポを男6人が抱え上げ、どんよりした声で「わーっしょい」「わーっしょい」と唱えながら舞台を歩き回るシーンが、とても象徴的だった。

その反面、ボウリング愛好家が幸せに暮らすためにはボウリング場がなければならず、そのためにはボウリング場の経営が成立するぐらいの客が必要と考えると、彼らがボウリングの価値をアピールして競技人口を増やそうとする活動自体は決して間違っていないように思える。「分かる奴だけ分かればいい」「私が好きなものをブレずに愛し続けていることに意味がある、社会の評価なんかクソ食らえ!」と言っているだけでは、自分の愛するものを守れないというのも、動かしがたい現実だ。
ポップに訴求すれば必ず「本質が捻じ曲げられている」「人気取りに走るのか」という古参が現れ、「本質を理解できない奴は来るな」と言えば新しいファンは獲得できない。何かの価値を、それを知らない人に訴えるような形で、でも本質を損なうことなく伝えようと思う時、効果的なアピールと下品な人気取りの境界線を、どうやって判断すればよいのだろう。ポポリンピック関係者たちの迷走に笑いつつも、「じゃあお前は上手くやれるのかよ」と言われたら何も言えなくなる。

ポポにボウリングをやる意味を思い出させてくれたのは、純粋にボウリングを楽しむ素人の男子学生3人組だった。
ポポと則夫が最後に取り戻した大切なものを、私も手放さないようにしなければ。もちろんそれは、大切なものを大切にする難しさと向き合い続けることでもあるのですが。

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