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分かり合えなさが愛おしい


分かり合いたいけど、分かり合えないなあっていうお話です。


私自身、かれこれ4年も大学で語学を専攻しているだとか、周りにたくさん異言語話者がいるだとか、活字を読むことが好きだとか、、、。
そんなあれこれが重なって、「言語そのもの」や「言語学」に特別な魅力を感じるように。



そうやって言葉に関する本をいくつか読み進めていくうち、偉大な言語学者である金田一秀穂おじいちゃん先生との出会いがあり、彼が著書でこんなことをぽつりと言っていたのです。

言葉は日本語ならば、あいうえお……から続く五十音順の組み合わせでしかない。とてもコストパフォーマンスの高い「バーチャルリアリティ(仮想現実)」の道具といえるだろう。


この発言にはもうびっくりで。

だって、この「バーチャルリアリティ」っていう例えに強烈な違和感を感じてしまうほど、全く当たり前のものとして言語を話しているという気付きがあったから。

それこそ、私が今こうして書いている文字だって、元を辿ってみれば、単なる記号の組み合わせにすぎないのに、少なくとも1億人くらいが理解できるという事実。(主に、日本人。)


改めてあれこれ思いを巡らせてみれば、これってけっこう神秘的なことなのでは?と気付いてしまって。

それと同時に、「バーチャルリアリティ」だからこその問題も浮上してきて。

それは、やはりリアルではないゆえに、言語表現には限界があるってこと。

言語(言葉)には、動詞・名詞・形容詞・副詞、、、というように、それぞれ種類がある。
最近知った言葉もあるくらいだから、莫大な数の言葉が存在するように思えてしまうけれど、それでも言葉の数には限りがあって、きっとそれは広辞苑の厚さくらいだったり。


むしろ、日本語あるいはどんな言語を尽くしても、定義がなくて言い表せない物事や感情なんかのあれやこれのほうが、はるかに多く存在しているわけで。


だから私たちは、多少意味合いが違えど、そういうものを既存の言葉に当てはめて使うしかない。そんな意識は全くないのだけれど。

そう考えてしまうと、自分が伝えたい気持ちのすべてを相手に理解してもらうことって、じつは出来ていないのでは?と思う。
もし100%が伝えられたとしても、そもそも個人で考え方や感じ方も違うっていう問題も出てくるからなおのこと。


つまり、結局のところは誰とも正確に分かり合えることは無いのかもしれなくて、そう考えると悲しくて、寂しい気持ちにもなる。



それでも、なにも言葉だけが伝える手段じゃないことも確か。表情だったり、相手に触れたりすることだって立派なコミュニケーションで。


だから言語ばかりではなく、そういったあらゆる手段を利用して、互いに分かり合おうとするのって、とっても愛おしい。


言語って、そういったバランスのあるコミュニケーションを助長するっていう意味では最高のツールだ。

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