見出し画像

【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く〜③

(前回の②より続く)
ここ数日間、明らかにボクの右足が「異常です!」と悲鳴を上げ始めてきたことを受け、休日診察中の救急病院に駆け込んだボクに、大きな雷にでも打たれたような担当医からの「右足の精密検査を」という予期せぬ告知を受けてしまったー。

2001年(平成13年) その2


第2章 嵐が吹き荒れる!

「なんなんだ・・え〜〜っ!!どうなるんだ〜??」

ボクは痛みながらもかろうじて動いた右足も使いながら、帰りの自転車をこいでる最中、こんな浮かび上がった当時の正直な気持ちを思わず声を出しながら、半分泣きながらも放心状態で、なんとか自宅へたどりついた・・。

帰宅すると、当時住んでいたアパートの入ってすぐ左手にあった浴室から光が漏れていた。

妻は入浴中であった。

こういうときに限らずだが、大概ボクの家では、仕事帰りがこうなっても大丈夫なように、予め夕食はつくりおきしてくれていた。

当然この日も例外にもれず、夕食も用意してくれていたので、普段なら食べる・・という流れなのだが、さすがに今日は食べる気にならず、食卓の椅子に座ったままうなだれていた。

そのうち妻が浴室から出てきて、ボクの姿を見つけるなり、その異変に気づき「おかえり。ご飯食べたら?」と、聴いている限りはいつもと変わらない様子で声をかけてきた。

いつもならする「ただいま」という挨拶も忘れていたボクは、「いや、今日は食べたくない・・・。」と妻にいかにも気をひくような返答をして、正直に今日の病院での告知されたことなどを、せきを切ったように話しはじめた。

それを聴いていた妻は、少し間を置き「・・・そうなんや。まあ、とりあえずご飯食べたら?」とボクに夕食を勧めた。

大概、妻はこんな返事をする事が多い。

今思えば、常に冷静、客観的、先を見越す・・夫である自分がこのように主観的、情緒的、感情的なものに流されやすい人だと、必然的にパートナーである妻は、このような考えになるのだろうという、全くもってボクの持論(笑)なのだが、この当時は、そんなことを考える余裕すらなく、一方的に「人の気も知らないで・・こんなことがあれば普通食欲なくなるだろ!共感もしないで・・なんて人だ。」と、内心悲劇のヒーローのような独りよがりに思っていた(笑)。

これを妻側からすると、あくまでこれはボクの推測にすぎないが、当時、妻自身も一人目の娘をお腹に抱え、初めての出産に対する不安もあったと思われるが、このような感情丸わかりの夫を前に不安、弱音は言えない、出せないと本心にフタをしてしまっていたような気がする、

そんな妻なりの気遣いも気づけず、ボクはさらに自分の殻に入ってしまった。

それはつまり、これまで生まれて以来、大きな病気はおろか、病院の入院でさえ経験のなかった自分にはこのような事態を受け入れることはとてもできなかったことを意味していたー。

そこからの自分というのは、今考えてもちょっと違う次元というか、半ば放心状態、感情を失ったというか、どこかに置いてきてしまった抜け殻のようになってしまっていたように思う。

この間を時系列に述べると、
・この次の日に、とりあえずの事実と、再び休職せざるを得なくなった旨を職場の社長と上司に連絡。

・その数日後には、右膝のできものである病巣の検査をする組織採取のための手術をするべく、告知を受けたA病院に検査入院。

・その2日後には、右足含む下半身の局所麻酔を受け、上半身のみ意識のあるまま、人生初の手術を受ける。恐怖のピーク(笑)。

・手術で採取した組織検査結果、担当医の紹介で少し大きなB病院へ、さらにはより整った治療環境をと、最終たどり着いた転院先は、隣県にあるC大学病院という規模の大きな病院だったー。

時は5月21日。目の前にある、予想だにしない自分の環境の変化に、自分はすっかり絶望のどん底にいた。生きる気力さえ無くしていた。

そんな腑抜け状態の自分を見ていた今は亡き母は、そんなボクの様子がほっとけない様子で、この時出産間近で簡単に動けない妻に代わり、決して実家からは近くない距離を電車に乗って、しょっちゅう様子を見に来てくれていた。

ボクは本当に有り難かったのだが、当時は本当に自分自身が極限状態だったので、ただでさえ心配性だった母に心配かけて、「申し訳ない」という気持ちと恥ずかしい気持ちとが交錯して、ただただ何も言えないでいた。

そして入院以降、一通りの検査が終わり、A病院で摂取されたボクの病理組織を元に、いよいよボクの最終の診断が告知される日が来た。

その日は、長女を身ごもっている妻はもちろん、両親、兄という身内が立ち会って、C大学病院のとある会議室に招かれ、緊張感高まる空気の中始まった。

ボクは緊張と不安の気持ちに襲われながら「夢であってくれ」と、いまだ現実逃避したい気持ちにかられていた。

ボクたち家族に向かい合う形で、続々と主治医のみならず、研修医、病棟看護師など複数の病院スタッフがぞろぞろと入室、これまでの検査で撮影されたボクの右足のレントゲン写真などの画像をもとに、主治医による淡々とした口調で、ボクの現在の病状が改めて説明されていった。

まさに、どこかの医療ドラマでのワンシーンが始まったような錯覚を覚えた(いやこれ、ほんとに(笑))。

つまり、こういう内容だ。

・ボクの右足は、やはり大腿骨の内側あたりにできもの(つまりは腫瘍)ができているのは間違いない。
・今回の組織検査でその腫瘍は悪性だった。つまりはがん細胞。
・そのがん細胞がどのようにできたかという原因は不明。
・腫瘍の進行度は初期の部類に入るので、治療はできる。
・治療は基本、まず抗がん剤で腫瘍を弱らせる→そこで手術で腫瘍を摘出などで死滅させる→術後はその後の再発防止のため、再度術前の抗がん剤治療を再開。
・治療期間は、腫瘍の発生場所、種類によって異なるが、骨の治療期間は長い。通常、抗がん剤治療で点滴は1ヶ月を1クールとして、13クールほど。つまり、1年以上かかる。
・万一、治療をしない選択をすると、個人差はあるものの最終的に100%1年以内に「死亡」する・・・。

・・・と一見すると、自分でいうのもなんだが結構過酷な治療スケジュールに見える。

しかし、ボクは予想に反し、少し「ホッ」としていた。

なぜなら、治療する方法がボクにはあるんだということを確認できたから。

正直、最悪事態の「治療法がなく、余命◯◯・・」というよくあるあのフレーズをどこかで勝手に想像していた。でも治療をすれば少なくとも、1年以内の「死亡」は回避できる・・・!

そして、ボクは改めて実感した。

「やっぱりボクは死にたくない!生きたい!!」ということを。

ーーーーー
皆さん、今回も「2001年」は終われませんでした・・。
お願いがあります。
延長戦、突入させてください(笑)!
(2001年その3へつづくー)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?