【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く⑰
(その⑯より続く)
ボクの新たな仕事の「足」として加わった専用車いすとともに、新たな異動先の新設の有料老人ホームでの業務が始まった2010年が過ぎ、早くも2年目を迎えた2011年。
この年は何かと、今でも忘れられない大きな出来事が起こることになる。
それはボクにとってとてつもなく切ない出来事でもあったー。
2011年(平成22年)
第17章 ボクは一区切りの「けじめ」を示した
前章より、ボクは職場内異動をし、新たに新設の法人内介護付有料老人ホームのケアマネジャーとしてスタートしていることはお伝えした。
そんな開設2年目を迎えたこの年、2011年といえば、社会的に忘れられない、いわゆる「3.11」で知られる、東日本大震災が挙げられるのだが、ボクにとってはそれにもはるかに勝る身近な出来事が、この4ヶ月後、7/1に起こった。
実母の逝去だ。
ここでボクの母の当時の近況を補足説明しよう。
実は、ボクの母はこの年から遡ること約5年ほど前から「私は死んでる、死んでる・・・。」などの意味不明的な発言が目立つようになり、その後あれよあれよという間に、いわゆる「鬱症状」が現れるようになった。
そのうち、よくしゃべり、表情も豊かだったボクの母は、別人のように無表情になっていき、心身とも弱っていった。
母はその間精神科からの処方薬で治療しながらも、亡くなる数ヶ月前からは寝たきりになり、隔日で意識がなくなり、身体が硬直するといった症状も現れていた。
それだけにボクはいつどうなってもおかしくないと覚悟はしていたものの、その「瞬間」は無情にも早くやってきた。
亡くなる当日、意識はかろうじてあったものの、ボクはたまたま仕事が休みで、かかりつけの診療所へいつもの点滴をうちに家族三人がかりで抱えられた母が点滴を受けていた。
診療所で付き添っていたボクは、母がわずかながら「ううっ・・」といったうめき声らしきちいさな声をあげたのに気づき、思わず母のところへかけより、母の顔を覗き込んだ。
しかし、そのときは母の眼の瞳孔は動かず開いたまま、ピクリとも動かなった。
慌てて近くにいた主治医を呼び人工マッサージをしていただくが、二度と母の呼吸が戻ることはなかった。
ボクはこのとき、思わず母の身体を起こし「お母さん!!これで終わり!!?なあっ!!」って悲痛に叫んでいたように思う。
その瞬間、母の眼から涙がつーっと流れていくのを見た。
これが母の最期だった。
母の人生は約76年。確かに少し早めの幕下ろしだったが、晩年の5年間は前述のとおり重度の鬱病との闘いだったから、ある意味年相応だったかもしれない。
この亡き母を苦しめ、寿命を縮ませた鬱病は、おそらくボクが原因だったのだろうと自責している。
なぜならば、ボクがこの障害者の要因になった疾病、悪性の骨腫瘍になった時の1年近くの入院生活の間、ほぼ毎日往復2時間以上かかる距離を病院通いしてくれていた。
本当に心配症の母だったがゆえに神経をすり減らしていたに違いない。
それだけに今もボクは、母のことを思い出すたびに胸が締め付けられる感覚に襲われる。
母が亡くなったこの日以降、葬儀が終わった直後、ボクはけじめをつける意味で、生まれて初めて頭を丸坊主にした。
周囲から色んな人に驚かれたが、頭を丸めるのになんの恥ずかしさも抵抗もなく、当然のごとく「生まれ変わって」いた。
そんな大きな転機を迎えてからも、この2011年はなんとかかんとか、人工関節くん(笑)の入った右足も持ちこたえてくれた。
(その⑱へつづく)
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