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【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く⑱

(その⑰より続く)
自分の身内である実母が7/1に永眠するという初めての出来事が3.11より自分には馬鹿でかいものになった2011年も考えてみれば、たまたま1年のうちの下半期初日だったが、その後もあっという間のいつもと変わらず仕事に追われる日々。

そして、2012年。当然のことだが、新職場での3年目を迎えた。

うーん、あんまし仕事面の成長もない(笑)。

2012年(平成23年)

第18章   母はもういないという事実


この年は、言うまでもなくボクの実母が亡くなった次の年であったのだが、やっぱり母がこの世にいなくなったという事実はまだ受け入れ難かった。

かといって、それがショックということでもなく、なんというか、単なる事実なんだということを、ボクの実家に行った時、当時安置されていた母の遺骨を見るたびに確認していた・・・・そんな冷静な感覚だった。

人が亡くなると、その後は初七日、四十九日、一周忌・・・・となにかと行事が続くが、その度は表舞台に立つ父を見ていると、なんかやっぱ頼もしいと素直にボクは思った。

実は母は生前、見合い婚で結婚した父のことをはっきりいってよく思っていなかった。

「全然私のいうことを聞いてくれない。」
「全然冗談が通じず、とんちんかんなことばっかり」
「人前で何を言い出すかひやひやする」

などなど・・といった、いわゆる父の愚痴を自分の子供であるボクと2つ上の兄にこんこんとルーティンのごとく聞かせていた。

しかもそれは父の居ないときに内緒でという陰湿なものだった。

だから長年聞かされてすりこまれていたのは、母の歪んだ解釈で覆われた父の悪い偽りの虚像だった。

しかしそんな母が晩年に鬱病になってからは全くそんな事も言わなくなり、それまでの母が放っていた愚痴で見えなかった父の本当の姿、人となりが見えるようになった。

この母の没後も、父はそんな母の悪口をいうことはおろか、もうこの世にはいないことを淡々と受け入れ、これまで母に遮られできなかったカラオケに通ったり、甥っ子たちと遠方へ旅行に行ったり、本当に余生を楽しんでいたように思う。

そんな淡白な父だからこそ亡き母の生前のあの思い出すだけでも嫌な父への数えきれない愚痴をきれいに流すことができたのだろうかとも思う。

そんな母の没後1年目にあたるこの年のボクの人工関節も大きな症状変化はなかった。

しかし業務は当初相変わらずの激務で、一日半分以上は立って移動して、時には車送迎で運転して・・みたいな足にはよくない荷重はかかっていたのに。

これってやっぱりそんな心配性だった母が守ってくれているのか・・と虫のいいことを考えているボクがいた。

すでにこの時ボクはもう41歳、実に障害を負った29歳から10年以上が経っていたのだー。

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