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【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く⑲

(その⑱より続く)
前回の最後を41歳というボクの当初年齢で結んだが、考えてみれば41歳といえば、言わずと知れた男性のいわゆる「本厄」と言われる厄年真っ只中なのである。

やはり、なんとなくそういうのも気になるボクは当然のごとく生活費から費用を出してもらい、厄払いを近くの神社でしてもらった記憶がある。

しかしだ。これまでボクはすでに29歳にして悪性骨腫瘍で闘病生活、30歳に入り転移性肺腫瘍、そして右足への人工関節置換で身体障害者・・・と、十分すぎるほど「本厄」に値するほどの災難を被っていたのだ(笑)。

だからというわけではないが、もう多少の苦難は驚かないような、妙な安心感がボクの中に澱んでいた(笑)。



2013年(平成24年)


第19章    厄年真っ最中!!といえども・・・・


2013年ー。
平成もすでに24年がすぎ、そして職場でも異動先の有料老人ホームもすでに3年目を迎えていた。

ボクはといえば、ケアマネジャー同然の「計画作成担当者」たる肩書をもっていたとはいえど、相変わらずのグダグダぶりだった。

とはいえ、職場の老人ホームはといえば、慢性的なスタッフの人材不足事態で、ケアマネジャー業務も専任というわけにはいかずに相変わらず、現場の食事時の介助などのケアワーカー業務、病院送迎など相談員業務、緊急事態対応などの管理者業務、夜間警備の当直業務・・・などなど、ほぼ「なんでもや」ともいわれる役割になっていた。

当然、人工関節くんの居座る右足含む心身も疲弊してきた感を自覚するようになった。

開設3年目にもなれば、スタッフ間にもオープン時には無我夢中だったのが、いろんなところでひずみもでてくる。

そんなスタッフの愚痴やら相談やらをボクはできるだけなげかけられたら、受け止めるようにしていたのだが、いつの間にか自分からの発信はないまま、受け身だけの人になっていってしまっていたように思う。

当然ストレスもたまるわけだ・・・。

そして例の業務中の寝落ちも改善する気配もない。

その原因は、このときはまだ睡眠不足がちの生活リズムの乱れによるもので、自分の堕落した性格のせいと自責の念にかられていた。

しかし、この自責は数年後には全くの役に立たない行為だったことになるのだが、それはまたその時にお話しするとしよう。

とにかく、このときは本当に毎日が違和感と、虚しさが漂流していて、ただただ、人工関節くんというボクの抱えた爆弾だけが爆発しないように・・・そこだけ気にかけていたと記憶している・・・。

(その⑳へ続く)




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