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【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く〜④

(第1章 その2より続く)
とうとうボクの「ポンコツ(笑)」になった右膝関節の正式診断名が下された。診断名は「右膝関節骨腫瘍」。
骨腫瘍には良性と悪性のものがあるが、ボクは「悪性」の、いわゆる一般的な「骨肉腫」と言われるものだった。
ボクの場合、良性でも悪性でも、病巣を取り除く手術をすることは同じだ。では、何が違うのか?

それはずばり、抗がん剤治療だ。

抗がん剤というのは、やはりまず思うイメージは、脱毛、嘔吐感、免疫低下・・・などの辛そうな「副作用」ではないだろうか?
ボクも少なからず、「副作用」にはこういったマイナスイメージを抱いていた。

で、実際は・・・。
・・・実際、「想像以上に」やっぱりでした・・・(予想に反してという流れと思いきや、やっぱりという流れ 笑)。

詳細については、とりあえずこの後述べていくことにしたいと思う。

2001年(平成13年) その3


第3章  甘く見過ぎていた・・・

さて、いよいよ初回の抗がん剤治療を控えた前日、ボクの右腕に合計3日予定で点滴注入される抗がん剤の通り道をつくるため、病棟看護師によりルート(点滴される常設の柔らかい点滴針を刺す)を取られた。

点滴を常時一定量流すための「クレンメ」と呼ばれる調整機器、「輸液ポンプ」と呼ばれる点滴量をより正確に決めてセットできる機器が点滴管へつながれ、どんどん自分の周囲治療環境がつくられていく。

当時は、当然治療に対する不安怖さは感じていなくはなかったが、それ以上に「しっかり治療して治す!」という気迫といった「決意の気持ち」のほうが上回っていた。

そして容赦なく、抗がん剤の初回である「第1クール」は始まったー。

まず治療初日。昼食前頃から、それまで治療中24時間体制で注入されている水分補給目的の電解質液の点滴の流れに割り込む形で「1種目」の抗がん剤が注入されていった。

ここで補足説明すると、事前にボクは主治医から、抗がん剤治療については特に注入時も食事制限もなく、食事も可能なら食べてもいいというという意外な事実を聞いていたので、注入中もしっかり食事をとっていた。副作用に見られる嘔吐感等も、個人差があり全くでないという人もいるということだったので、そうかもしれないとも思っていた。

なぜなら初回の抗がん剤は注入して1時間前後で終了したのだが、その後数時間特に体調異変など目立った反応もなかったのだ。
もしかして、ボクは副作用のでない身体なのかも····、と期待さえしていた。

しかし、そんな淡い期待は夕食前になったころ、突如粉々に打ち砕かれた。

徐々に頭痛がひどくなってきたと思い、急にムカムカとした嘔吐感がこみあげてくるや否や、「あ、吐く!」と思って近くに用意していた洗面器に大量の吐瀉物を嘔吐してしまった。

それからというもの、今まで栓がつまっていた水がどばっと噴き出すように、嘔吐し続けた。
「そうだ、ボクは元々よく吐きやすい体質だったー。」と思う余裕もなく、昼に食べた食事であろうものを全て吐いてしまっていた。

この時も一通り吐ききったらボクは、体力を消耗しながらもなんとか吐き気は収まった。
しかし何かを食べ飲みすると、まもなく吐き気がきて·····といったことの繰り返しだった。

結局、自分の腹のなかは空っぽのままその日は虚しく過ぎていった….。

そして、翌日とその次の日と相変わらず、抗がん剤投与しては嘔吐・・・が続き・・。なんとかかんとか第1クールのメニューが終了した。
まあ、結果がしんどいものであるのは別にして、とりあえず「終わった」ことにホッとした。
「さあ、これであとは回復するだけ・・・・」ってこの時は思って「いた」(笑)。

でも違った。

そこからも試練は続いた。
抗がん剤を投与すると、薬種にもよるが、今回の薬は自分の血中の免疫細胞である白血球数と血液が凝固させる血小板数がタイムラグで数日もしないうちに減ってくるのだ。

それはつまり、免疫機能が低下していっていることを暗に意味する。

減り方も個人差らしいが、ボクも例外ではなく、やがて白血球数が通常の5,000〜6,000個前後なのが、毎日の採血で日を追うごとに3,000個、2,000個と順調に(笑)減少していく。
そしていよいよ1,000個を切ると感染症にかかりやすくなるので、菌が常時存在する「普通病室」から、病棟端に一つだけ存在している「無菌室」と呼ばれる個室に移ることになる。

ここがまた辛い。
1週間前後、一歩も病室から出られなくなる。
いわば今でいう「新型コロナ病棟」に移るようなものか。

まあこの大学病院は、当時は大変古い病棟だったので、後で増設したと思われる「無菌室」に移るとパッと見はキレイな部屋だが、面会者も刑務所の面会室のようなガラス越しの面会になる。
よく闘病の話のドラマなどに出てくる、あのような風景だ(笑)。
ここで注意すべきことは、感染を防ぐためのマメな手洗い、うがいはもちろんだが、血も止まりにくくなるので、あまり身体をぶつけて出血するような事故に注意するように言われる。
さらに食事は生モノ禁止ですべて加熱食メニューになる。

しかし、想像するような過酷で暗いイメージはボクにはあまりなく、感染症や事故を起こしさえしなければ、テレビはイヤホンなしに普通に見れるし、周りに気兼ねせず声を出せた。
個室あるあるである(笑)。

ただ、そんなに甘いことばかりではない。
しんどさなど自覚症状はなくとも、体内の白血球数はさらに減少、ついには500を切るようになった。

こうなると、ほぼ体内に免疫細胞がない状態なので、何とかして白血球数を増やす必要がある。
そこで、腕に白血球数を増やす筋肉注射を毎日打つことになる。

これがまた痛い(笑)。

実際、ボクは子供のときこそ注射は嫌いだったが、今はインフルエンザ接種だったり何回も注射される機会を重ねるうちにこんなものだと思うようになっていたが、こればかりは、避けられないことはわかっていながらも、接種が確定するといつユウウツになっていたのを思い出す(笑)。

そんな試練にも耐えながら一週間ほどすると、ボクは白血球数も再び上がってきて免疫機能が復活してきたので、自己免疫が復活する合格ラインに届くと、ようやく無菌室を脱出し、元一般病室に戻るといった具合である。

このサイクルでいくと大体約3週間ほど。
そして、あと1週間は何も積極的治療はせず、病室での体力温存、体調回復の期間になる。
これで1クール1ヶ月単位のサイクルである。

そして、次は2クール、3クール・・・と治療が進んでいく。

身体はたしかに辛かったが、人間というものはこのようなサイクルにも慣れてくるものである(笑)。
2クール目あたりから、やはり髪の毛も抜け出した。
あれって、ほんとに嘘みたいに痛みなくサクサク抜けていく。
朝おきたら、枕に抜けた髪の毛がいっぱい・・といったあの光景(笑)だ。

ボクは特に坊主になるのにそれほど抵抗はなかったが、やはり女性だったりすると、髪が抜けるというのはショックだというのは納得できた。
そして、やがてボクはツバメの雛の頭の毛のようなひらひらの毛だけが残るせつない(笑)頭になった。

そんなこんなで、この後4ヶ月たち、8月の許された一時退院で、あれからこの年の7月に妻の身体から産まれた長女を、妻が手助けを受けていた妻実家で、初めて抱っこした時の感触!

嬉しいというよりか、緊張した。落とさないように・・(笑)。

でも、やっぱり思った。
「生きててよかった・・。」って・・。

実はこの一次退院になる少し前に、ボクの病巣のある右膝の痛みが前に比べて増していたのだ。
主治医の「もしかして、癌の進行が少しあるのかも・・」という言葉に、ボクは改めて深刻になり、「もしや、長女が生まれるころにボクはこの世に・・」といったよからぬ思いがよぎったこともあった。

そして、この退院後の病院への辛い再入院をし、いよいよ手術という大イベントが迫ってきた。

この手術は、いわばボクの右膝の骨で猛威をふるっているがん細胞を手術前の抗がん剤治療で弱らせたところへ、この手術で大量の放射線を術中照射、がん細胞を死滅させ、そのままでは折れてしまうその骨の髄内に釘で補強するという聴いているだけで、痛々しい内容だった。
9月末に行うことになるのだが、以前、下半身麻酔による人生初の生検手術(右膝がん組織の一部採取)を受けていたこともあり、若干軽く見ていた。甘く見ていた(笑)。
つまり、あの嘔吐など様々な副作用に苦しめられた抗がん剤治療に比べれば、むしろ全身麻酔でボクの無意識のままに手術も終わるし・・って本当に安易に考えていた・・・(笑)。

そしていよいよ手術当日。
下準備として、前日より絶食、浣腸を受け、腹部を空っぽにしたボクは手術着に着替え、ストレッチャーで載せられ、いわゆる手術室という物々しい雰囲気の中に入れられ、点滴、酸素マスク、血圧測定器など様々な機器がボクの身体を覆い始め、あっという間にボクは全身麻酔の眠りに導かれた・・。

そして・・・。
「手術終わりましたよー!わかりますかー!」という病棟看護師さんの声で目を覚まし、手術後安静にする個室へボクは運ばれた。
うつろな意識の中で「大丈夫?」という聞き慣れた妻の声が聞こえた。
正直心強かった。
こういうときの家族の存在は、本当ありがたく思う。
手術後の主治医からの話では、ボクのこの手術は述べ12時間、つまり半日ほどかかり、さらに出血量が多く輸血を行ったとのことだった。

その時は、軽く「そうですか・・」と聴いていたボクだったが、その輸血をしたという重要性をこの後知ることになる。

それは、身体を起こそうとすると、貧血で目が回り、またまた嘔吐してしまったのである。
そして痛み止め点滴はずっと入れられていながらも、手術側の右足は動かそうものなら激痛が走り、身体拭きも看護師さんが3人がかりだった。

当然、局部も介助を受ける(笑)のだが、もう「恥ずかしい」なんて言う余裕もなかった(笑)。されるがまま(笑)。

そんな予期せぬ辛い生活が1週間近く続いた。
その間に、術後3、4日あたりから、関節の拘縮(いわゆる固まり)を防ぐため、容赦なく始まる歩行リハビリに悲鳴(?)をあげながら、なんとかこなしていった・・・。

そして、これで終わり・・・だったらいいのだが、この後、再度始まるあの抗がん剤治療のことを思うと、正直憂鬱であった。

そんなボクの無駄な躊躇も無視され(笑)、抗がん剤治療のクールが再開された。
その時密かに驚いたことがあった。
それは、手術を挟んで間が空いたことで、抜けていた髪の毛にうっすら生え始めの産毛が!!!
しかし、その貴重な産毛も再度の治療で無惨にも抜けていったのは言うまでもない(笑)。

そして、季節はいつの間にか秋から冬になっていた。ずっと空調で適正温度が保てている病棟にずっといると本当に季節感が無くなった(笑)ボクにはあまり関係ないものにはなっていたが。

そして今までボクの人生史上、最大のどん底を味わった2010年は暮れていったのであるー。

ーーーーー

おかげ様で、ようやく問題の2001年が終了できました(笑)。
(その⑤へとつづくー)

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