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【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く⑥〜

(その⑤より続く)
ボクは1年近くの闘病生活を終え、ようやくこの期間中に産まれた生後10ヶ月の長女、妻との3人の生活をようやくスタートさせた。

病院から一時外泊中のボクが、長女が産まれた直後に里帰りしていた妻の自宅で眼も見えていない長女をこわごわ抱いたことが唯一の面会以来、ボクは一度も会えていなかった。

そんなボクと長女との再会以来、人見知りの激しかった長女との「号泣格闘」が繰り広げられた。

なんとか、長女と一緒にいるよう努め、ようやく長女に「号泣」なく受け入れて頂くまで約1ヶ月かかることになる・・・(笑)。

そんなこんなで、ボクの足のリハビリも兼ねた心身療養期間は終わりを迎え、ようやく1年半ぶりの職場復帰の時を迎えたのだったー。

2002年(平成14年) その2

第5章 「中途障害者」という意味

さて1年半も休職していると、完全に「時差」ボケならぬ、「仕事」ボケ(笑)していたボクだったが、職場との事前話し合いにより、この闘病による足障害を負ったということで、肉体労働を課せられる介護職を離れることになった。

ではボクはどうなったのか?

結局、ボクは職場で併設されている「ケアハウス」と呼ばれる軽費老人ホームという、基本自立して生活できる高齢者の入居する施設に異動になった。
つまりここでの業務は、入居者の話し相手などの相談援助といった間接的な介助にとどまり、入浴、移動など直接的な介護は外部の介護職(ヘルパーなど)に依頼することになる。

要は、ボクのこの障害のある足に負担のない部署になったのだ。

さらに、今までの特養では夜勤も行っていたものが、ここでは夜間にはスタッフが常駐しないため、ナースコールで繋がっているにあるその特養スタッフで緊急時対応するというスタイル。

部署のスタッフ数はというと、〜4名程度。しかも男性スタッフはボクだけという環境だった。
さらに、同期のよく知る女性スタッフGさんがすでに所属していたこともあり、意外とボクはすんなりその部署に馴染んでいった。

ただ勤務時間については、出勤時間を1時間遅らせてもらう配慮を受けてもらえた。

というのも、当初入院前は、自転車で通勤していたのだが、この障害で自転車がNGとなってしまったので、当時自宅と職場を結んでいた巡回バスを利用しようと考えた。
ところが、始発に乗るとなると到着が現状の出勤時間に間に合わないという不都合がでてしまったため、その到着時間に合わせる形で、このような配慮になったのだ。

とにもかくにも、ボクの足受傷後の通勤を含めた日常生活はスタートしたのだった。
こんな身体になったとしても、治療する必要がなく、普通に朝起きて普通に出勤して、家へ帰れること・・・その当たり前の日常が嬉しかった。

ぶっちゃけ言えば、「生きている」こと自体、たまらなく嬉しかった。

ただ主治医より助言されていたのは、手術後の右足は普通にある分には問題はないが、あまり極端な負担をかけすぎないようにして、痛みがあれば休めるようにということだった。

そういうボクに、この「ケアハウス」の職場というのは、本当に有難かった。

実際入居者などから相談を受けるのも、座りながら行えたし、パソコン作業するといったデスクワークも増えた。
以前の特養とは同じ建物のフロア違いであったが、特養での慌ただしさが嘘のように、このフロア本当にゆったりしていた、本当に・・。

ということは、それだけ静かなのである。後にそれはボクの業務態度に大いに間違いなく「予想外の影響」を及ぼすことになるのだが・・・。

これは、後々に明らかになるので、その際に述べることにしよう(笑)。

さて、手術後のボクの足はというと、実際通勤しだすと、一日の歩数はさすがに入院前の健常時ほどの歩数はいかないまでも、日に日に歩数を伸ばし、筋肉もそれなりについてきて、時には自分が「障害者」であることも忘れてしまうほどであった(笑)。

この「ケアハウス」にも、唯一「忙しい!」という日が月に数回あった。

それは、定例行事である、隔週の「居酒屋」と月1回の「ティーパーティー」を運営する業務であった。
このときばかりは、いわゆる飲食店の接客仕事を経験されたかたならよくお分かりかもしれないが、本当に立ち仕事で頭をフル回転させなければならない。
間違えることなく注文をとり、メニューをつくり、用意し、提供する。

しかし、やっぱり素人で経験もほぼなしのボクにとっては、必ず(も困るが)間違いはあった。
それは人間である以上、完全は無理だ。

そこで学んだのは、失敗しないようにすることはもちろんなのだが、それ以上に失敗したとしてもそのリカバリーするスキルということだ。

時には「注文したものと違う!」とクレームが出ることもある。
その時は冷静に、感情的にならずに客観的に自分を置く・・・と、イメージはこんな感じだが、実際はそんなうまくいかない(笑)。

ただ、ボクにとっては身体的に身体、特に障害足を酷使することを思えば、メンタル面での酷使はまだ耐えれていた、と思う(笑)。

この時はまだ・・・・。

そして、やがて訪れた平穏になったこの翌年の2003年に「まさか」の事態がはたまたボクに降りかかることになる・・・(またかよ(笑))。

(その⑦へ続く)










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