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水を買うこと

水を買うこと。

それはおよそ20年前の日本ではとても特別なことに感じていたと思う。

海外では飲食店に行き、水を注文するのにも金銭を必要としなければならない。
しかし、ここ日本では店員の「いらっしゃいませ」という声と同時に運ばれるのである。
店員の愛想、無愛想抜きにしてもそれはごく一般的なサービスとして行われている。

浪費することを「湯水のように垂れ流す」という表現が用いられるほどだ。

いわば、水はタダ同然の代物だ。

日本では蛇口を捻れば勢いよく出るそれを、わざわざ代価を支払い購入すること。
それは今でこそ市民権を得たように見えるが1990年代の日本ではそうではなかった。

僕が小学3,4年生の頃の話。

ある夏の日。母が海に連れて行ってくれた。

僕の故郷は目の前に海があった。
それこそ、敷地内から釣竿を落とせるレベルでだ。

しかし、そこは海水浴場ではなく漁村であった。
野良猫は食事を求め船着場をうろつき、カモメは上空で「ミャーミャー」と鳴く。
もちろんそこで泳げないことでもないのだが、れっきとした海水浴場で泳ぐとなると車で30分程かけていかなければならなかった。

それは夏休みのクソ暑い日。入道雲が天高くそびえ立つような絵に描いたような快晴だったと思う。

僕は母に海水浴場に連れて行ってほしいとねだり、幼馴染じみの潤くんと一緒に連れて行ってもらった。
僕たちは当然キャッキャと遊び、カラーボールを投げてキャッチボールをしたり、遊泳禁止ギリギリのブイまで泳いだりした。

散々遊びきって帰る頃になった。

母は、遊び疲れた僕たちに喉が渇いただろうと気を利かせてコンビニに連れて行ってくれた。
そして僕たち二人に好きに買っていいよと小銭を渡してくれた。
僕は喉に癒しを求め清涼飲料水を手にし、レジへと運んだ。

続いて潤くんがレジに出したものを見て僕は驚愕した。

読者の皆様。もちろんお分かりでしょう。

潤くんがレジに出したものは皆様の期待通り水だったのである。

それも、こともあろうにその水は僕が買った清涼飲料水より数十円高かったのだ。

なぜ、わざわざ味がしないものを買うのか。僕は不思議に思った。
味がしないものを買うなんて損ではないかと。

母もそう思っていたらしい。
自宅に着くと母は僕にこう言った。

「潤くん、せっかく買ってあげたのに水なんか買わんでも。」

『せっかく』という言葉は大変身勝手だと思うからあまり好きではないが、母の気持ちが分からないでもない。
買ってあげるのだから価値のあるものに使って欲しいと思ったのだろう。価値観の話はここでは割愛するが。

なにはともあれ、潤くんはその味のしない水を満足そうに飲んでいた。

2017年。時は経った。ノストラダムスの大予言は外れ、21世紀となった。

あの頃、特別な行為かに見えた水を買うということ。

コンビニにはメーカーの違う数種類の水が展開され、老若男女問わず購入している。
水は市民権を得たのだ。

昨晩は飲みすぎた。朝から頭がガンガンして胸が気持ち悪い。

僕は昨夜の胸やけを治すため電車に揺られながら水を飲んでいる。


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