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死刑について考える


はじめに

日本にはさまざまな刑罰が存在します。その中で一番重い刑が死刑です。死刑については様々な議論を巻き起こしています。EU加盟国とアメリカの一部の州では死刑が廃止されており、日本が死刑を執行するたびに抗議しています。日本は死刑を導入していて、欧米より遅れているかのような印象を与えられることがありますが、果たしてそうでしょうか?今回は非常に重たいですが、死刑について書いていきたいと思います。


死刑とは

日本の刑罰は刑法9条に規定されていて、死刑については11条で規定されており、各刑罰についても刑法で規定されています。今回は死刑だけですが、他の刑罰について興味のある方はぜひ、ご覧になってください。

第九条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。
第十一条 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。2 死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで刑事施設に拘置する。

刑法

死刑存続の根拠として、犯罪抑止効果が挙げられますが、死刑による犯罪抑止効果については明確な効果はなく、一番効果的なのは検挙率を上げることが犯罪抑止につながると言われています。そういった観点からの死刑存続は少し的外れになり、効果がなければ廃止すればいいという流れになり、オウンゴールになる危険もはらんでいます。存続派が廃止派のおぜん立てをするといった自己矛盾に陥ることになりかねません。
死刑の基準は永山基準というものがあり、この基準を参考に裁判所では死刑の判断をします。永山基準は永山事件から生まれた基準であり、当時少年であった永山則夫が起こした連続射殺事件で死刑を適用するかどうかが争点となり、最終的には少年であれ、死刑判決が下ることがあることを示しました。この事件の刑の執行は行われました。永山基準では殺人であれば、2-3人を殺害した場合は死刑というのが一般的です。ただし、これは絶対的な定量的基準ではなく、犯行の計画性や悪質性などを考量され、1人殺害した場合でも死刑になることはあり得ます。1人だから死刑にならないということはなく、人を殺めれば、死刑の可能性は付きまといます。強盗殺人や放火殺人は殺人よりも悪質であるため、死刑になる確率が高くなります。永山基準は絶対的な定量的基準ではなく、定性的な基準でもあり、様々な要素が考量されます。この永山基準は刑法を学ぶ上で絶対に避けては通れないものです。
そして、死刑執行の具体的な手続きについては、刑事訴訟法の475条から479条に規定されており、479条は例外規定であり、原則は475条から478条に則って執行されます。

第四百七十五条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。
 ② 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

第四百七十六条 法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。第四百七十七条 死刑は、検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立会いの上、これを執行しなければならない。
 ② 検察官又は刑事施設の長の許可を受けた者でなければ、刑場に入ることはできない。第四百七十八条 死刑の執行に立ち会つた検察事務官は、執行始末書を作り、検察官及び刑事施設の長又はその代理者とともに、これに署名押印しなければならない。

第四百七十九条 死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
 ② 死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する。
 ③ 前二項の規定により死刑の執行を停止した場合には、心神喪失の状態が回復した後又は出産の後に法務大臣の命令がなければ、執行することはできない。
 ④ 第四百七十五条第二項の規定は、前項の命令についてこれを準用する。この場合において、判決確定の日とあるのは、心神喪失の状態が回復した日又は出産の日と読み替えるものとする。

刑事訴訟法

しかし、刑事訴訟法で規定されている法務大臣が「判決確定の日から六箇月以内」に執行する規定について守られていないことが多く、死刑判決から何年や何十年経ってから行われることがあります。これは法務大臣の不作為と言え、法律違反ですが、法務大臣も政治家である以上、死刑執行の承認を行うことでイメージが損なわれることも否定できず、次回の選挙に影響することも考えられます。最悪のケースは死刑を執行した後に冤罪であることが発覚した場合は無実の一般市民を殺めてしまったことになり、政治家として活動することは不可能に近いですし、一人間としてその十字架を背負うことになってしまいます。法務大臣が死刑執行に消極的なのはこういったこともあるからです。法律がある以上、法律を守るべきです。守れないのであれば、その規定を改正すべきだと思います。法律違反の状態を内閣が率先して行うことはいいことではありません。法律も人間の心情に寄り添ったものにすべきです。裁判官や法務大臣も人間である以上、その辺りを考慮した法律にしていただきたいです。


死刑廃止論で忘れられる被害者

死刑は一度執行されてしまうと後に無実であっても、その人は帰ってきません。懲役刑であれば、服役していた期間があるにしろ、生きている以上、社会に戻ることはできます。死刑の一番の問題点はこの点であることは確かです。死刑は不可逆的な刑罰であり、その判断が他の刑とはくらべものにはなりません。そして、死刑廃止論でよく言われるのは死刑囚の人権です。確かに、死刑囚にも人権があることは否定しませんし、完全に否定してはならないと思います。最低限の人権は守られるべきです。しかし、よくよく考えてみてください。これらの論調は死刑囚を一般市民と同列で捉えられている場合や捉えようとしている場合が多いです。死刑囚は、かなりの重犯罪を起こしたから、死刑判決が下っているんですよね。つまり、被害者の人権を無視した行動を取った結果、死刑判決が下っているんですよね?一般市民が何もしていないのに死刑になるようなことはあってはいけません。

この朝日新聞やNHKの記事にあるように、死刑執行の告知を当日に行うのは死刑囚にとって精神的負担が大きすぎるであったり、死刑が残虐刑にあたるのでないかであったりと書かれています。しかし、被害者こそ、いつも通り生活していたのに急にその命を奪われ、普段通りの生活を送れなくなってしまいます。被害者遺族の精神的を軽視どころか無視していると言ってもいいほどの内容です。もし、人権の観点から死刑について考えているのであれば、真っ先に考えるのは被害者や遺族のことであり、彼らこそ、突然の悲劇で平穏な日常を奪われてしまった当事者です。そんな彼らに寄り添わず、死刑囚に寄り添うのは倫理的におかしいと言わざるを得ません。
確かに、死刑賛成の人でも今の絞首刑を変えるべきと主張する人もいます。彼らは死刑自体に反対しているわけではなく、現状の日本の絞首刑の運用は凄惨なものであると考え、死刑囚よりも刑を執行する刑務官に寄り添っていました。大学時代に授業を受けていた教授がまさにこの考え方で、他国の絞首刑は日本のような底が抜けるような死刑だとどうしても執行中や執行後がかなり凄惨な状態になるそうです。想像するのも怖いですが、、、
死刑は被害者感情を考えると残すべき制度であり、命をもって償ってほしいという遺族の気持ちを汲むことができる制度だと言えます。守るべきは被害者であり、被告人ではありません。もちろんこの前提は冤罪でないことが大前提です。近代国家では罪刑法定主義といい、法文に書いていること以外の刑を適用することができません。そのため、刑事裁判での刑の選択には厳格な手続きが必要です。被告人も人間である以上、基本的人権を踏みにじってはならないからです。それは国家が恣意的な権力を行使しているのではなく、国民を守るためです。しかし、一般市民と同等の保護を被告人や囚人に求める必要はありません。罪を犯した以上、人権が制限されることは当然です。被告人に寄り添うことが悪いこととは言いませんが、そこで被害者やその遺族が置き去りされることが絶対にあってはなりません。


最後に

僕は死刑については賛成ですが、今の手続きに関する法律は実情に即していないので、見直すべきだと思っています。死刑制度は被害者の無念を晴らす一つの方法であり、その選択肢を奪ってはいけません。今の刑事裁判では被害者遺族も裁判に参加することができ、裁判官から発言を求められた場合は意見を述べることができます。被害者やその遺族が裁判で発言できることは被害者やその遺族に寄り添った裁判を行うことができ、非常に素晴らしいことだと思います。犯罪被害者の保護を優先すべきで、被告人や死刑囚に寄り添っても彼らの無念を晴らすことはできません。犯罪者に優しい国ではなく、被害者を徹底的に守る国であってほしいです。被害者保護が完璧かそれに近い状態になった後で、被告人や死刑囚に寄り添うようなことをするのが妥当だと思います。犯罪者保護も中途半端な状態で被告人や死刑囚に寄り添い、ましてや被害者があたまも悪者かのように取り上げられるのはおかしな話です。そういった意味でも刑事裁判では被害者の意向は重要ですし、その選択肢を減らすようなことをしてほしくはありません。

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