摂食障がいの克服150【そして、私はひとりになれない】
【山本文緒さんと、『ファーストプライオリティー』】
大好きな作家の山本文緒さん。
10代のころから枕元にたくさん並んでいた小説。新書が発売されれば、すぐに買って、1日で読み終えてしまう。
59才という若さで亡くなられましたが、亡くなられた後も、50代で出版された長編大作の『自転しながら公転する』がドラマ化されるなど、今も愛され続けています。
文緒さんが32歳の時に書かれた、エッセイ。『そして私はひとりになった』
ご実家を出られたことがなかった文緒さんは、ご結婚されて初めて実家を離れ、5年でご離婚され、初めての一人暮らし。それが、32歳の時だった。
のちに、『ファーストプライオリティー』という、31の短編集が織り込まれた小説集を執筆。この短編集の主人公はすべて31歳。すでにわりと大きなお子さんがいる主婦もいれば、男性とお付き合いをされたことのない31歳もいたり、様々な31歳がこの中に存在します。
その31歳のころ、(読み返すと32歳でした)文緒さんご自身は一人暮らしを初めて経験された年だった。
私の31歳~32歳といえば、息子がある程度の年となり、また仕事への復帰を目指していたころでした。なかなか安定して働けるまでが長かった。そして、常に体調不良を感じていました。息子ともっと過ごしたいのに、体調が悪い中働いていたらますますよくなくなって、自分自身のファーストプライオリティーが不透明になっていった。それまでは、間違いなく息子のそばで眠れること、それに幸せを感じていたのに。
人は追い詰められると、その人自身のアイデンティティーを見失う。私は、母親である。それだけで本来充分だったのに。世の中でまるでひとりのような気がして生きていた。本当は心をもっともっと自由にして、自分を表現してもよかったのに、その仕方を教わったことがなかった。
気づけば、摂食障がいというかたちで、自分を表現するようになったのです。
【摂食障がいへの予兆】
私が本格的に摂食障がいになる前、身長161センチに対して、体重は45キロぐらい。10代・20代の生き辛さはさておき、ここではその、31歳以降の話です。
正社員として、漸く復帰できたものの、今でいうブラックだった体質の企業で、更に体を壊します。ある一定の期間、夜道を泣きながら帰ったものです。それでも早朝には冷え切った体で職場に向かい、息子への責任を果たそう、私の体より、息子の将来。そう思って無理し続けたら、ある日食べることが止まらなくなる。完全におかしい。おかしいのに、やめられない。
この企業を退職すると、とたんに体重は54キロほどに。
明らかにおかしい食べ方は続いたけれど、次に安定した職業に就いたとき、46キロほどに落ち着いていました。恐らく不安が、食べるという行動依存に走らせたのでしょう。
(この後、1社で派遣社員を経験しています。ここでまた辛い出来事があり、実際には1ヶ月で8キロ落ちて、その後、正社員として転職します)
【転職と過ち】
安定した企業に就いた。
この時は嬉しかった。また同期もいたので、同期でよく仕事の帰りに話したものです。
頭はきっと躁の状態。この少し前だったと思います。双極性障がいであると診断されたことがあります。しかしながら、今の主治医に出会うまでは、この先生に出会えてよかったと感じた先生はいなかった。
したがって、本当に双極性の状態だったのかはわかりません。
ただ、焦燥感、いらいら、孤独、不安感、それが落ち込む方向だけではない状態で現れていた時期となります。
振り返ると、ただ嬉しいだけじゃなかった。きっとそれまでの膿もたくさんにじみ出てきて、嬉しいだけの躁ではなく、明らかにちょっと自分が思ってもいないような、変な風に気持ちが高揚して抑えられない時期でもあった。このころ大きな過ちを起こす。友人を失う。
何より、息子との時間を徐々に失い始める。
生きていくのに、必要なこと。それはお金もそうだし、お金を得るためには仕事をしなければならない。けれど、本当に正社員でなければならなかったのか。
なぜ、近所のアルバイトではだめだったのか。自分に厳しいが所以でしょうね。そうでなければならない、母親なんだから、そう思っていた。
また、自分なんて苦しんで当たり前、けれど、周りに不幸とみられたくも、同時になかった。
【ゴールとは】
息子との時間をうまく取れなくなり、実家に助けてもらいます。
その結果、孤独感が非常に強くなる。
同時に、たったひとりの誰かがいない私は、周りの人すべてに私の居場所を与えてほしくなる。自分という人間が、ただの企業の一コマではなくて、人間としても、好かれたいと思うようになる。
ありのままでただ、淡々と仕事をするのではなく、その仕事ひとつひとつに異常に意味を見出すというか。そして、周りに感謝されるとまた、異常に喜ぶ。
愛情に飢えすぎなんでしょうね。
本来、働く場所にそんな意味を見出そうとするものではなく、お金を得るだとか、企業の流通に関わり利益をもたらす、それが働くということ。
自分はあくまでもそこに関わるただの一コマなのです。それ以上でもそれ以下でもない。
ゴールとは、息子とまた一緒にいられることに他ならない。
けれど充分に不幸な私は、何でもいい、幸福がほしかった。
息子のそばで楽しく笑っている私の実家の人たち。この輪に入れなくなってしまった。
【拒食症】
徐々に拒食症を発症。このころ、43キロでした。
まず、自分は不幸でなければならないという歪んだ理論が植えつけられました。電気をつけることすら贅沢におもえて、暗闇で生活するようになる。
食べる価値がないような気がして、夜ごはんを抜き始める。
洋服を選ぶときには、細身のお店を好み、その中で一番小さいサイズが入らなければいけないと思い込む。二の腕が指でくるっとつかめないといけないとおもう。太ももは普通の人のふくらはぎほど細いと嬉しい。
37キロになったころ、体脂肪率は11%。太ももサイズも40センチを切っています。そして、このころの記憶がのちにすぱっと消えます。
生きていたのに、記憶がない。
脳が委縮して、生命維持がやっとだったのでしょう。
【過食症発症】
37キロで過ごした期間が長くあり、もしかして、もっと落ちていたのかもしれません。頬はこけて、歩くのもやっと、自転車を漕げなくなりました。
当時の食事は夜は2年ほど断食、朝はパンをひとつ、少しのたまご。お昼は100円のカップ麺。異常なまでにお金を遣ってはいけない、その精神も強かった。
このままではだめだ、食べよう。そう思って、夜ミニトマトやチーズを食べてみたり、朝パンにフルーツを足してみたり、お昼には小さなおにぎりを持参するようになりました。コンビニのおにぎりの、恐らくは5分の1ほどのサイズ。それをひとつ食べることから。後はわかめスープ。それと、ヨーグルトか牛乳プリン。
そして、とある日、それは起こりました。
当時何でも小さく冷凍する習慣のあった私。突然冷凍庫のものを次々と解凍。シンクの上の棚にあった頂いたチョコレートを一気に食べる。
嘘みたいに無心で食べる。
食べようと決意して(このころ料理はあまりできず、買ってきていた)想定して準備する、その何倍も体が欲する。怖くなって買い置きできなくなる。怖くなって、倉庫にしまいに行く。でもすぐに取りに走る。
毎朝自分の顔を鏡でみて、恐怖心から、写真に残すようになる。
42キロまでは精神を保てました。43キロになった瞬間、友達との約束もドタキャン、もう自分が自分でなくなり、行動も抑制できない。怖い、怖い・・・
仕事をしていても、頭の中には常に過食症の自分がいる。
記憶はこのころからしっかりとあります。
仕事はずっと続けており、自分の仕事の履歴やメール送信履歴などみて、非常にしっかりとしている、と驚いたものです。どんなときも、仕事だけはしなければ、その精神だったのですね。
【過食症との闘い】
体重は43キロから、結果1年以上かけて、47キロほどになりました。まだ、私は過食に悩んでいました。
あの、体が欲する異常な過食欲というよりは、半継続的に起こる、心の孤独感から起こる過食、もしくは『自分なんかが食べてはいけない』という脳が抑えつけたことによる過食です。非常に根強い。
友達とランチしても、自分はお茶だけだとか、変なマイルールがあり、また一瞬で体重増えそうだと感じる食事は難しく、また必要以上に小食を装っていました。
けれどひとりになると起こるかもしれない、過食。
ひとりでいたくない。
しかしながら、世間との関わり方は依然として得意ではありません。
トライアンドエラーというか、このころ、対人関係でうまくいかない私に大事件が起こりました。
体にある異変が起こり、救急車で運ばれる。もうだめだと思った。
もう生きていけない。
でも、生きなくてはいけない。仕事がある。
そんな悩みも多かった私に、不意にまた悲しみでいっぱいの出来事が起こり、いよいよ、次の仕事に就職をします。
【再び、転職】
この企業に就職できたことは、ご縁のお陰であり、今もそういうネットワークを絶やさなかった当時の私にお礼を言いたい。
ここで出会った同期や同僚とは今も心で繋がっており、多くの学びを得ました。お客様との出会いひとつひとつに感謝をし、今の私に繋がっています。
非常に仕事自体は厳しかったこと、それは私の性格も含めると、ということになります。私はできることがあれば、すべて事前に念入りに整えたいし、貿易や営業の仕事などひとつひとつが、シンプルなタスクであれば割と速く対応できるほうではないかと思いますが、1人ひとりのお客様というところを考えると、非常に時間がかかります。
また、過去の傷などが完全に癒えないまま次に進んでいますので、毎晩気づけば泣いているんです。自然と涙がどんどん出る。
一方、過食に向き合ったころから、私の生き甲斐はやはり、息子だった。
息子のイベントに向かうことが、人生の喜びだった。
矛盾しているようだけれど、当時思ったんです。
過食が起きても起きなくても、今日はいい1日だった、そんな日もたくさんあるじゃない、って。
そう、息子のイベントにもう一度足を運べるなんて、なんて素敵なこと。
けれど、一方で頭には仕事も離れない。
体は正直で、耳が聞こえなくなり始めたのは、この企業に就いたころからです。頭の奥から音がする。仕事を2年ほどしたけど、車にはねられたりもして、脳神経外科にもいったりして、結果休職しました。
【入院】
休職してから、2ヶ月ほど入院しました。
入院していると、朝・昼・夜のお食事が楽しみになりました。
シンプルに何も考えない。運ばれてくるお食事を頂く。
それ以外は寝たり、お散歩したり。おふろに入れない悩みがずっとあったのに、入浴すらできる。お湯につかってぼーっとすることが、初めて許されたのでしょう。
頭が半透明というか常にぼうっとしていて、
・・・判断力停止し、ここで大金を失う。
【貯金・投資】
苦しんでないといけない、そう思って贅沢をしたことがない私。
貯金は、この際に、投資信託も合わせると、ある程度まとまった金額に。
自転車を漕ぎながら耳の不調・脳の不調があった際にも、その貯蓄額をみたらちょっと幸せを感じた。いつかきっとゆっくりできる。
インデックス投資を初めてこの時、すでに数年経っていました。
しかしながら、大金を失うと、お金のことを考えることを脳が拒絶。
暫しの間、証券口座も見ない時期が続きます。
【息子、進学】
その後息子が進学。大きなお金は失いましたけれど、ゼロではない。
私は今も息子に責任がありますし、息子が社会人として巣立つまで、経済的自立するまで、見守る責任がある。
息子は進学と同時に、一人暮らしをスタートしています。
私自身が、そうであったように。結果、レシピ交換をしたり、いい距離感かなと私は思っています。周りのお母様たちは、みな、寂しいと言っているけれど。
先日、一緒にロンドン・スコットランド・レイキャヴィークに旅をしました。二人で2週間もの間海外に。楽しかった。ケンカばかりしますけど、やっぱりそれも親子ならでは。私があまり器用じゃないから。けれど、拒食・過食などの症状も出ず、海外は居心地がよかった。窓から見える景色も、街を歩いていても、いつもの孤独感がない。日本ではいつも孤独なのに、海外はそれが当たり前だからいいのかも。
【山本文緒さんの『再婚生活』と友達】
昨年の夏に、友達に出会いました。
耳が聞こえづらいのですが、心がとても優しいと思います。
私の心は非常に今も不安定で、不安定が生きているようなもので、友達としても戸惑いを多くもっていると思います。
山本文緒さんは、32歳で一人暮らしを始め、その後大きな失恋もご経験されながら、‘王子’(再婚相手)に出会われます。
別居婚をスタートさせたのは、お二人とも既にご購入された家があったから。山本文緒さんは、都内と、札幌にご自身で家をご購入されます。(のちに王子と家を建てる)
しかしながら、次第に重い鬱を患った文緒さん。2度ほどご入院もされます。『再婚生活』というエッセイには当時のことが詳細にわたって描かれています。非常にしんどい際に、文緒さんが、王子に、
「出てって!」と言って、王子が困惑してドライブしていたら、「何してるの!早く帰ってきて!」と言われたそう。
私にはとても理解できる・・・。友達に、「早くきて」っていうこともあるけど、「今日はひとりでいたい」と言うこともある。
ケンカしつつ、今も一緒に飲みに出かけたり、うちで一緒にご飯を食べたり。
【山本文緒さんの『恋愛中毒』】
「どうか、どうか、私。これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように」
有名なフレーズ。ドラマ化もされました。
自分自身を愛することができず、他人との愛もまた確立することが難しい。人を信じるとは、愛されるとは。
愛されていたとしても、愛されていると感じにくい人生だったとすれば、愛するということは、非常に難しい。
かつて、わかったはずのことかもしれない。けれど、再びわからない。
【山本文緒さんの『眠れるラプンツェル』】
『眠れるラプンツェル』では、27歳のヒロインが、CMディレクターの夫と結婚していることから話が始まります。
夫は非常に忙しく、ほぼ帰宅しません。その昔ヒロインが若かったころに一度、CMに出たことがあり、それを機に付き合うことになったのですが、夫はもうヒロインに関心がありません。けれど、毎月きっちり15万円振り込んでくれる。ヒロインは、それを全部遣う。主に、夫のための食費に。
冷蔵庫にはいつ夫が帰ってもいいように、おにく、おさかな・・けれど帰ってこないからいつも余らせる。毎日毎日暇なままに生きていたヒロイン。
そんなある日、隣に住む、中学生の男の子と仲よくなる。
のちに、その中学生の父親とも仲よくなる。
3人が微妙に仲良く時間を共にしている、ある日事件が起こる・・・
というストーリー。ヒロインが、ある日自己嫌悪に陥りながら思うんです。
「こうして家の中で何もせず横になっている限り、何も起こらないのだということに改めて気がついた。何もしなければ平和なのだ。水面に小石を投げるから波紋が起こるのだ」
出かけてしまうから、人と関わってしまうから、苦しくもなるわけで。
結果、何もかも諦めて、一人で自宅にいれば、平和なんです。
またこれは、ネガティブな意味合いだけではない。
『そして私はひとりになった』
文緒さんの自立宣言とも言えるご著書。
摂食障がい依存から、脱却した先にあるはずの心の自由。
『そして、私もひとりになった』を。
昨日そう思ったのです、自立を。
心の自由と自立を、と。
けれど、仕事が終わってラインを見たら『お疲れ様ー。応援してるよ』という、友達のことば。
思いました、『私はひとりにはなれない』
これからもぶつかりながら、一緒にいられたらいいな、と。
これまでの様々な色々な出来事が、年を経て、誰かに変換されていく、そんなかたちの深い友情もある。
そんな私のストーリーでした。
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