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2022年の振り返りと、2023年の決意表明

決意表明投稿も三年目になりました。

自分の届くべきところ

2022年は、以前からの目標でもあった社会福祉士の試験を受験して無事に合格できたことがよかったな。これに関しては自分よく頑張ったと褒めたい気持ち。なんだかんだと目標達成していて偉い。

10年前、大学の編入試験を受ける時に志望理由書に書いたことの一つが「社会福祉士の資格を取ること」だった。それからずっと、心の中には資格への思いがあって、2020年の転職をきっかけに通信に通い始めた。
仕事と勉強の両立は、当初思っていたよりも大変ではなかった。だって、「知識は武器」だから。現場で壁にぶつかったときに勉強をすることでモヤモヤ感を昇華していた。体験と知識がイコールで繋がる感じもとてもよかった。

ただ、試験が終わったあとは、ぽっかりと目標がなくなってしまった気持ちになり、しばらく燃え尽き症候群のようにもなってしまった。
結局資格を取ったところで何が変わるでもなく、できないことばかりで届かないことばかりだなあと思っていた年度末。職場のとても尊敬している先生が異動することになった。困った時、つまづいた時、いつも頼りにさせてもらっていて、わたしにとっても「先生」みたいな人だった。

そんな人から、手紙をいただいた。

前職からここに来て、貴女が次自分をどこに届けるのか。貴女のもつ力は、他から求められる力です。それは確かです。
貴女が届くべきところに届きますように。

この励ましのような祈りのような言葉が本当に胸に響いた。きっとこの一年は「自分が届くべきところはどこなのか」を考える一年になるのだろうなと思った。この手紙をお守りにすることにした。

そうして始まった新年度

今年度の学校での仕事は、苦しいことの方が多かった。
春先から夏頃までは、ずっと子どもの話を聞いていた気がする。生きづらさ、将来への見通しのなさ、周りがわかってくれないことの悲しさ。そんな話を一日中聞く日も少なくなかった。

聞くばかりじゃなくてどうにかしようともがいてみたけれど、何をしても上手くいかないことが続いた。学校でできるアプローチの限界みたいなものを感じて、これ以上は手詰まりだと思ってしまった。

職場の人たちに気にかけてもらえていたのはわかっていたし、たくさん声もかけてもらってはいたけれど、やっぱり立場が違うから同じ目線では話せない。たぶん、みんなとは見えているものが全然違う。
学校に来ることが全てで、教室にいることや行事に参加することが何よりの正義。そんな空気に日々消耗していって、気づけばわたし自身が子どもにそれを強いる場面も増えていった。そんな自分でありたいわけではないのに。「教育」って「学校」って一体何なんだろうとずっと考えていた。

一番関わっている時間が長いからと、子ども対応の判断を最終的にすべて委ねられることもとても怖かった。「自分の行動や声かけが、子どもの将来を壊すことになっていたらどうしよう」とずっと不安な気持ちでいた。

振り返ると、わりと心はギリギリだったと思う。正直この頃は子どもと関わること自体が苦しく感じるようになっていたし、一旦現場から離れたいとも思うようになっていった。

諦められなさと、葛藤

しんどくて、息が切れてしまうかも。
そう思っていたけれど、ちゃんと嬉しいことは待ってくれていた。

7月、高校の授業参観で過去に相談室にいた生徒と再会した。授業後にその子はわたしのところに来て、「学校楽しいです。今は無遅刻無欠席で通っています。部活も続けています。」と報告してくれた。中学校の時には見たことのない元気な様子だった。

8月、夏休みに開催される学習支援の場にいつも関わっている生徒が来てくれた。ずっと、どうにかして外に連れていきたいと思っていた子だった。その子は毎日やって来て、とてもいい表情でいろんな大人や同級生たちと喋っていた。いつも一人で考えている関わり方を、その場にいるスタッフたちが一緒に考えてくれたことも、とてつもなく嬉しかった。

こんなことがあると、やっぱり子どもと関わることをなかなか諦めることはできない。そうは思いつつも、今の仕事の任期は三年で、今年度が最終年度。終わりにするのか延長するのか、他の何か選択肢を選ぶのかを決めなければならなかった。

自分の行先に関してはずっと悩んでいたけれど、「もう手詰まりだ」という気持ちを感じて以降、漠然と来年度は町にいないような気がしていた。この町で自分ができることはもうないんじゃないかと思うようになっていった。だけど、どこに向かうべきかは全然わからなかった。

旅に出ることにした

そんな不透明な状況を打破したくて、島根県に行った。

いろいろ行ったけれど、メインの行先は「おんせんキャンパス」という雲南市にある教育支援センター。ずっとずっと行きたいと思っていた憧れの場所。どんなことをしているのか、どんなスタッフがいるのか、どんな子どもがいるのかをこの目で見たかった。きっとすごいことをしている場なのだろうと思っていた。

だけど実際に見てみると、いい意味で手の届かない場所ではないのかもしれないと感じた。わたしが普段大事にしていることと同じようなことをスタッフの人たちも大事にしていること、そしてそれが子どもたちのためになる信じて日々取り組んでいることが現場から伝わってきた。

とても素敵な場だったし、子供にとっても大事な場だった。そこで出会った子どもたちも優しくて素直で可愛かったな。せっかく北海道からきたのだからと、お昼休みに一緒に散歩したのもいい時間だった。

北海道じゃ絶対に見れない景色

何よりも、初めて人と同じ言語で話ができた感覚になれたことが嬉しかった。今目の前にある困りごとだったり、それを一人で抱える辛さみたいなものだったり、そんな色々を多くを語らずともスタッフの方々は理解してくれて、そしてどうしたらいいのかを一緒に考えてくれた。会ったことも見たこともない、知らない町の子どものことだったのに。
それが本当に心強かった。一人じゃないと思えて、ものすごく励まされたような気持ちになった。

ただ、ここで働きたいという気持ちには不思議とならなかった。むしろ「どうしたら自分の町でもこういう場が作れるか」を、無意識的にずっと考えていた。そんなことを考えるなんて、まだこんな気持ちが残っていたなんて、自分自身にびっくりした。

わたしは、今の仕事や町が嫌いなわけじゃない。ただ、同じ言語や立場で、一緒に考えてくれる人やわかちあえる人に出会いたかっただけだったんだ。そう気づいた。

こんな気持ちがまだ自分にあるなら

きっと、町に残ることが、一番後悔しない選択になる。
そう思って島根から戻ってきた後、上司にもう一年任期を伸ばしてもらえるようお願いをした。

任期を伸ばしたところで、どこまでできるのかはまったくわからないし、2022年よりもっと辛いことがあるのかもしれない。でも、逆に、もっと嬉しいことも待っているかもしれない。
だから、2023年もこの町で、自分がやれることを探したいし作っていきたい。具体的にこれというものはまだないけれど、学校の限界があるならもっともっと外に出て、気の済むまでやりたい。

幸いにも、今年一年、この町で仕事以外の関係もたくさん作れた。気が許せるなあと思える人や、自分が自分でいられるなあと思える人たちが増えた。それもまた、手放したくないものだ。

こんな人たちやこんな暮らしも、ちゃんと大事にしていきたいと思っている。

これって実は、過去の自分にとってはありえないことだったりする。今まではいろいろなところを転々として関係性をリセットすることの方が多かった。そんなわたしが手放したくないと思える人たちに出会えたのだから、やっぱりまだこの町にいることがいいのだろうな。

手紙に書かれていた「届くべきところ」はどこなのかまだわからないけれど、何があるかわからない未来の方にあえて進んで行こうと思う。
2023年、がむしゃらに掴んでいきたい。

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