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神社のかみさま

学校の門を入ったかどうだか、あちこち適当に歩いて、私は神社にいた。
神社になら制服のまま誰とも何もしないでいさせてもらえるだろうと、なんだか「目論み」があるような気持ちで、その上に加えて「説教されたりとか面倒なことになるんじゃないの?」と四方八方に疑いを撒き散らしながら境内の端っこにしゃがんでいたら、「住職」みたいな格好をした恰幅のいいおじさんが歩いてきて「こんにちは。学校は?」と聞いてきた。私がいるのは「かたてやくし」で、薬師、あ、ここは神社ではなくて寺なのだと気づいたが(だってさ、神社にいるのは神主で住職ではないよね)、最初に「ここは神社」だと思ってしまった思い込みで、なんだか頭の中がごちゃごちゃした。
頭の中がごちゃごちゃしても、私は油断しなかった。私についての本当の情報なんか1ミリも漏らさず、心も1ミリも揺らさなかった。やがて「住職」は曖昧な穏やかそうな顔をして行きすぎた。何かの用事の途中にいるような、どことなく慌ただしげな雰囲気で葬式にでも呼ばれていたのかもしれない。私は住職が去ってホッとしていたのだけども、暫くしたら暇で暇で仕方がなくなって手持ち無沙汰になってきた。そうしたら今度は「爺さんに近いおじさん」がトコトコやってきて、私の横に「よっ」と声を出しながら座って、座ったついでになんとも自然にそよ風が吹くような具合に話しかけてきた。私のことなど何も聞かずに穏やかな調子ではあったけども、勝手にあれこれ話していて、けれども私は「どのタイミングで何かを聞かれるかもしれない」とピリピリして油断しないでいた。
「世の中の大人を信じない」とか、そんなことではなくて、私のそもそもの性質として、人に対して本能的な恐怖を感じる質があるのだ。でもさ「ややこしい人の心を開かせる訓練受けました」みたいなものが流通するような社会の丸ごとに不気味な怖さを感じるのって、私だけではないんちゃう?

まあ、とにかく、そのじいさんおじさんは気楽な感じにあれこれと話していて、あるときに話に「間」ができた。その「間」に、「ふ。」という具合に(どんな具合かというと、息を吐くような具合に)「私、神社に来ても神さまにお願いしたいことを何もないのよねえ」みたいなことが口から出てきた。そうしたら、そのおじさんじいさんは「おいさんはな、神さまに手を合わせて、ありがとうございます、それだけよ。毎日。なんぼでも。手を合わせて、ありがとうございます、や。」と言う。そこにまた「間」ができた。その「間」に、ついまた「何にありがとうなん?」と言葉が出てきて、そうしたらそのおじさんじいさんは「いのちをありがとうございます、や。それだけ。それだけでええんよ。じゃ、神さまに挨拶して帰るわ。また明日も来る。」と言って立ち上がってすたすたと歩いて、神さまに手を合わせて帰って行った。私はおじさんじいさんが手を合わせて神さまに挨拶している様子をじっと見ていて心の中で「かみさま、今日もいのちをありがとうございます。」と言ってみた。おじさんじいさんの動きと私の心のアテレコのタイミングはピッタリだった。

そんなもんで、私は神さまへのマナーを学んだというか、神社で何をしたらいいかを学んだ(そこは、薬師さんやから本当はお寺なのだけどもさ)。

でさ、そこには本当に神さまがいたのよ。神さまがいる場所なもので、私はそこが「神社」だと勘違いしたんだよね。「仏」がいたのならお寺だと思っただろうよ。

今日のお話しはここまで。

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