バーラタの月
2008/12/08 永川成基
――象に乗ったことはある?
いいや、と僕は答える。
耳の横でパチンと音がして、髪の房が落ちた。
昼下がりのあたたかな陽光に雪色の髪が透ける。僕は白髪(はくはつ)小僧と名乗っている。僕の髪はすべて、首に巻いた生成の綿布よりも白い。
――私はあるわ。象は好き。
銀の鋏を握る褐色の指が視界に入った。
――象に乗るのは、とても気分のイイものなのよ。
そうだろうね。と僕は言う。どこで乗ったの? 巡回見せ物小屋かい?
――家で飼っていたの。
彼女は鋏(はさみ)を動かし続ける。
故郷の話を、聞かせてくれないか。と僕は言う。
なめらかな褐色の肌と黒い瞳を持つ少女はヒメクサ・ユリコと名乗っている。
当然偽名だ。本名は知らないが、母親と同じ名前だと聞いたことがある。だからここでも、彼女のことはヒメクサ・ユリコと呼ぶ。
僕が彼女本人について知る事はほとんどそれだけ。もう一つは遙か西方の圏家バーラタ圏の出身だということ。
彼女は鋏を止めて、少し思案して言った。
――長くなるわよ。
構わないさ。
髪を刈られながら、僕は彼女の話に耳を傾けた。
× × ×
彼女が語るところによれば、ヒメクサ・ユリコはバーラタ圏の由緒正しき王族の家に生まれた。母は彼女の出産と引き替えに命を落とし、彼女は母の名を受け継いだ。
彼女の父は、ヒメクサを妻(ヒメクサの母)の生まれ変わりだと信じていたようだ。
父はヒメクサを溺愛し、彼女は何一つ不自由なく育った。父が統べる領土で手に入るあらゆるモノが彼女の自由になった。
彼女が学校にあがった年、大勢いる兄の一人が結婚し、花嫁は持参金の一部として白い象を連れてきた。乳離れしたばかりの子象だが、既に大人の肩ほどの丈があった。
ヒメクサはすぐにその象が気に入り名付け親となった。イーシャ。童話の登場人物からとった名前だ。彼女はイーシャをかわいがった。
象を所持できるのは本当の大富豪(マハラジャ)だけだ。象が寝起きする小屋、運動場、水場、餌と餌やり人夫。象使い、彼らとその家族が寝泊まりする小屋……。
彼女の父はその全てを愛する娘のために用意した。
× × ×
――はじめて会った時、声が聞こえた気がしたの。『やっと会えたね』って。
彼女はその子象が気に入った理由をこう言った。
象使いによれば、象と人との間には、まれにそういうことがあるらしい。
× × ×
だが、イーシャの声が聞こえたのは、結局その時だけだった。
子象イーシャには年寄りの象使いの男がついてきた。南方の出身で、ヒメクサよりも濃い肌の持ち主だった。象使いは、長い棒の先についた金属のカギで、象のアゴやワキ、間接をこすり、象に指示を出す。そう調教されていた。
ヒメクサの目の前で、イーシャは鼻で握手をし、後足で立ち上がり、言われた通りに歩き回りと、面白いよう動いた。
彼女は象使いの仕事を教えるよう、象使いにせがんだが、父が反対した。
『王族は、象ではなく人を使う。王族が象を使う時は、象使いを使うのだ』
だが、老人は内緒で、ヒメクサに象の扱いを教え、ヒメクサはみるみるその教えを吸収した。老人は筋が良いと言って笑った。
ヒメクサは老人に褒美を与えるべきだと思った。老人は歌が好きだった。
ヒメクサは父に内緒で自分のラヂオを与えた。ニホン圏から輸入された、電池で動く小さな黒いラヂオ。父親には壊れたと嘘をついて、新しいものを買ってもらう約束をした。
老人は、ヒメクサに大層感謝した。これで故郷の歌が聴けると。
やがて、白い子象イーシャはヒメクサを乗せて歩き回れるほどに大きくなった。
ヒメクサはイーシャに乗り、老いた象使いは鞍にラヂオをひっかけて、音楽を流しながら、広大な庭を歩き回った。彼女にとって最も幸福な時間だった。
老人は異国の曲を流す放送局が好きだった。ヒメクサは放送劇(ラヂオドラマ)を流す局が好きだった。よくチャンネル争いをした。そのたびにイーシャは長い鼻でラヂオを二人からとりあげ、高々とかざすのだ。それでチャンネル争いは決着した。
× × ×
――妬ける?
そんなバカな。
――でも父は、嫉妬していたみたい。
君の事が大事だったんだよ。
――どうかしら。
ヒメクサは、僕の頭のあちこちに小さく鋏をいれながら言った。
近くの通りを、大音量の流行歌謡(ポップミュージック)が通過した。今日日、車載音響機器(カーオーディオ)は大袈裟になるばかりだ。
――ラヂオは嫌い。
どうして?
その質問を彼女は無視した。
――それで、あの日の事件が起こるの。
× × ×
ヒメクサは、いつものように真っ白なイーシャに乗って、散歩をしていた。いつもと違うのは、老人の象使いがいなかったこと。だからラヂオからは民話の朗読が流れていた。ヒメクサはその話をよく知っていた。何度も聞いた昔話の一つ。
むかしむかし、とある国に王様がいました。王様には娘が一人いました。
娘があまりに美しく育ったので、王様は結婚したいと思いました。
でもきっと、家来は誰も認めてくれないでしょう。
だから王様は、こう言いました。
『自分で植えたものを食べるのに、他人の許しはいるまい』
家来たちはまさか王様が娘の事を言っているとは思いません。
『そのとおりでございます』
家来たちは王様に賛成しました。
王様は自分が植えた種から育った娘を手に入れようとします。
王様の企みに気づいた賢い娘は、機転を利かせ逃げ延びる。ヒメクサの知る物語では、そうなっていた。そのハズだった。
しかし、ラヂオから流れる物語は、王様が娘を手に入れたと告げていた。
朗読者は、淡々と王様が娘にしたことを読み上げる。
王様は自分の娘を押し倒す。両足をこじあける。太ももの内側に舌を這わせる。
そんな卑猥な物語を放送するハズが無い。そう思いながらもヒメクサは聞くのをやめることができなかった。イーシャの背に揺られながら、ヒメクサはラヂオから流れる雑音(ノイズ)混じりの声に、集中した。
突然、その声の主に思い当たった。
――これは父の声だ。
それに気づいた時、股の間から生暖かいものが溢れ、流れ出た。
それが、ヒメクサ・ユリコの初潮だった。
経血はイーシャの首にそって垂れ、赤い首飾りのようになった。
× × ×
――丁度、こんな風にね。
彼女は背中から両手の指を僕の首に巻き付けた。その指は驚くほど冷たかった。
僕は何も言うことが出来ない。
× × ×
バーラタにおいて全ての事物は、浄か、不浄かの二種類に分けられる。
月経中の女性は、不浄であると見なされ、小屋に隔離された。家族でさえ接触は禁じられる。
父親と会うのが怖かったヒメクサはこのしきたりに安堵した。
屋敷の外れに建てられた小屋に彼女は籠もった。食事ですら家族と食べる事は許されない。他に月経中の女性はおらず、ヒメクサは退屈した。小屋の中は涼しく快適であったがイーシャと遊べないのが残念だった。
一人で計算帳を前に時間をつぶしていると、父の怒鳴り声が聞こえた。何を言っているかは分からないが、酔っているようだ。
言い争う声が近づいてくる。
この小屋に男性が近づくのは重大な禁忌(タブー)である。ヒメクサはその事に安心しきっていたが、父親の怒声を聞いてはじめて、その禁忌(タブー)は何ら物理的な障壁とはならないのだと気づいた。
扉に鍵は無く、小屋のまわりには身を隠すものが何もない。逃げ出せばすぐに分かってしまうし、それではヒメクサ自身が重大な禁忌を犯すことになる。
近づいてくる父の声を耳にしながら、彼女は何もできない。うずくまって震えているだけだ。
ヒメクサの視線は薄い木戸に釘付けになる。その戸がユックリと開いた。
強い昼の光を浴びて、父が立っていた。その手にイーユウ圏の貴族から送られたサーベルを持っている。宝飾された鞘に納められたサーベルは、父が召使いを叱るときに使うものだ。鞘に入ったままのサーベルで殴り飛ばされる召使いを、ヒメクサは何度も見て来た。
父の前に立ちふさがる者がいた。象使いの老人だ。この時まで、ヒメクサは老人がいることに気づかなかった。
父は老いた象使いに向けてためらいなくサーベルを振り下ろした。老人は頭から血を流して倒れた。
『これはどういうことだ』
父はそう言って、倒れた老人からラヂオを取り上げた。ヒメクサが渡した黒くて小さなラヂオ。
ヒメクサは何も答えられない。
その時、空気を裂く咆吼と共に、地響きが迫ってきた。聞き慣れた足音。イーシャだ。白象が真っ直ぐに向かってきた。老人へと。
イーシャは長い鼻で、いたわるように老人の首に触れる。
やがて振り向いたその目は憤怒に燃えていた。
父親はさすがに怯み、禁忌を犯し月経小屋の中に侵入する。老人を殺したのと反対の腕でヒメクサの腕を掴む。
イーシャは咆吼と共に、月経小屋にぶつかる。
柱が軋み、天井と、壁にぬられた漆喰がはがれ落ちる。
父は、何度も止めろと怒鳴った。ヒメクサは何もできない。
イーシャは繰り返し小屋に体当たりを続ける。
ついに、父はサーベルの鞘を払い、絶叫した。
ヒメクサは、掴まれた父の手をふりほどく。
父はイーシャに斬りかかる。まばゆく反射する刀身が、イーシャの首筋に食い込む。
イーシャが吠えた。
父の絶叫は続く。
そして、異変が起きた。
ズルリッ。
ヒメクサの経血で描かれた赤い輪に沿って、イーシャの首がずれる。
白象の首が斜めにかしいで、父の身体を押しつぶす。長い鼻が鞭のようにしなる。
イーシャの額がパックリと裂け、
開花した。
額から、首の切断面から、赤と白の花弁がいくつもいくつも突き出し、頭をつぶされた父の身体へと潜り込んでいく。
ヒメクサの頭の中に声が聞こえた。
『我は王(イーシャ)である』
あの朗読劇の台詞(セリフ)。父の声。
その瞬間、ヒメクサの身体を稲妻のような感覚が貫いた。意志が吹き飛ぶほどの快楽。幼い肉体の中で閉ざされていた、快楽を受容するための感覚が次々と芽吹いていく。全身の震え、立っていられない。
父の身体がゆっくりと立ち上がった。その頭部にはイーシャの頭がのっている。父の身体を手に入れた白象は、ゆっくりとヒメクサへと歩みを進める。
一歩ごとに、全身のあちこちから噴き出す花弁は、神像彫刻の後光のようにも、蓮華座のようにも映る。ヒメクサの潤んだ瞳に、その姿は神々しく見えた。
粘液に煌めく触手の先は指先となり、ヒメクサに触れようとする。
ヒメクサは、自分も手を差し出し――。
× × ×
――そこから先は覚えていない。
記録によれば、共振者番号十九番を持つニホン人女性が脳R化した象を処理し、ヒメクサは彼女に助けられたのだと言う。
この事件により、長い歴史と栄華を誇った王族であるヒメクサの家は滅び、彼女自身は条約機構に保護された。その後ヒメクサ・ユリコは共振者の道を歩むこととなる。
彼女が話を終えると、日は既に暮れていた。
――だから私はラヂオが嫌い。脳R(あれ)の声が、物語が聞こえてきそうだから。
散髪してくれた事に礼を述べ、鏡を覗こうとすると、執拗に邪魔をされた。巫山戯ていると僕は彼女を抱きかかえる形になる。
――ひとりになってから時に確認して。
そして、僕とヒメクサ・ユリコは口づけを交わす。
これから先に進む事はない。彼女は共振者なのだから。
散髪の道具をまとめて、彼女は帰っていった。
一人になった部屋でぼんやりとしながら、不思議な高揚感を感じていた。彼女の物語がどこまで真実なのかは分からないが、彼女の一部を手に入れた気がした。
ふと思う。
脳Rは、共振者と一つになりたいのだろうか。
人ですら他者と一つにはなれないのに。
僕は頭を振って立ち上がると、ようやく鏡を覗いて髪の仕上がりを確認する。
僕の首に、赤い筋がぐるりと輪になってついていた。
※参考文献 インドの民話AK ラーマーヌジャン 青土社
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