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正しいかより正しそうかが重要

現在レトリックの本を読んでいるが、
面白いことが書いてあったので
メモがてら書き綴る。

私の読んでいるレトリックの本は
伝える力、説得する力に重点を置いている。

そのためプレゼンやスピーチ、説得に
使用できる数々の技法や考えが書いてある。

そしてその中で
純粋な論理との違いが書かれていた。

私の解釈が間違っていなければ
以下のような違いなはずだ。


レトリックにもロゴス(論理)があるが、
幾分普段使っている論理とは違う。

今回書き留めたいのは
純粋な論理とロゴスの違いだ。

純粋な論理は
正しいか間違っているかを
重視する傾向にある。

しかしレトリックにおけるロゴスは
そうではない。

決めるものは
どちらがより正しそうか

というものである。


例えば優秀な上司がいたとして、
その上司からある仕事を頼まれたとする。

ここで正しいか間違っているかを
考えて返答するのであれば
「本当にその仕事はやるべきか?」
といった質問をすべきであろう。

しかし本当にその質問はすべきだろうか?

私はこのたとえ話の条件に
優秀な上司をつけた。

そのため優秀な上司のいうことなら
そのまま受け入れても問題はないだろう。


これと似たような話として
権力やステータスのみをみて
その人の話を盲信してしまうケースだ。

例えば東大生がこう言っていたとか、
テレビでこう言っていたであるとか。

そこに真偽はなく、
ただ正しそうという意思決定があるだけだ。


少し話がずれるかもしれないが、
人が何かを決めるときは
案外正しいかどうかは気にしていないようだ。

レストランに行ったとして
以下の2種類のサラダがあったとして
どちらの方が魅力的に映るだろうか?

シーザーサラダと
シェフの気まぐれサラダ。


とりわけ飲食店では
「シェフ」や「気まぐれ」
といった単語を度々見かける。

しかしこれらの単語は
そのメニューの美味しさを
担保するものでは決してない。

論理的に考えるのであれば
シェフの〜といったものは
シェフが作ったという情報しか
得ることができない。

第一シェフがいるような店なら
全てのメニューはシェフが作っているはずだ。

そのため美味しいかどうかは
全くわからないだろう。

気まぐれも同様だ。

気まぐれだからなんだというのか。

気まぐれだと美味しくなる根拠は
一切ないだろう。


しかしいざメニューに書いてあると
なぜか気になってしまうのは
シェフの気まぐれサラダの方だ。

もちろん気にならない方もいるだろうが、
一般論として美味しそうと感じる方は
多いはずである。

これは論理的に考えればおかしいが、
レトリック的に考えればなんらおかしくない。

メニューを見て
美味しそう=正しそうと思ったので
判断したに過ぎないのだ。

このように人の判断基準には
正確な正しさは必要ない。

必要なのは正しそうかどうかだけだ。



人間とは機械では無いので
完全に論理的に考えることは不可能だ。

そのため上記のような判断基準になっている。

しかしこれを使えば
うまく相手を説得できるのだ。

仮に正しくなくても
こうして説得できるのだから。

頭の片隅にこの考えを持っておけば
いつか役にたつかもしれない。


しかし自分が盲信するのは考えものだ。

優秀な上司のようにその人が信頼できるなら
基本的に信じてもいいだろう。

だが権力やステータスなどしか知らないのに
その人を信頼するのは危険である。

これはあなたが説得されている。

盲信するしないに関しては
きちんと一考してからの方が
リスクは少なそうだ。

現代は情報が溢れているため
踊らされないように注意したところだ。

注意喚起をしたところで
最後に皆様に質問をしたい。

今回の話をひょっとしたら
正しそうと思って信じていないだろうか?


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