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祈るという精神安定剤

人生で一度は「祈る」という行為をしたことがあるだろう。

宝くじ、テストの結果、はたまたトイレに行きたいけど近くにない時・・・

状況は違えど、人々が祈るシチュエーションとしてはよくある場面である。

さて、ここで考えてみたいのは祈ることの意義だ。
端的に言うならば、祈ることによって何が起きるのかだ。

結論から言って、祈ることによって祈る対象に何らかの影響を及ぼすことはほぼないだろう。

例えば、宝くじを買った場合を考えよう。
もし当たったら何を買おうかをと思いを馳せ、当選結果が出る前にあたってくれと頼む。
私がその立場でもそうすることだろう。

しかし、祈ったところで当選確率が少しでも上がるだろうか?
そんな都合が良い世界なら、皆が億万長者になっていることだろう。

例外的な考え方に「バタフライエフェクト」というものがある。
これは、ほんの小さな動きでもその動きがなかった場合とでは状態が大きく変わってしまうというものだ。
例えば、あなたの目の前で蝶が羽ばたいたとする。
この羽ばたきによってはるか遠くの地で竜巻を起こしてしまう。
このようなことが「バタフライエフェクト」である。

話を戻すと、論理的に考えて祈るという行為は意味をなさないだろう。
もし、祈る者がバタフライエフェクトを考慮していなければの話だが。

しかし、本当に祈るという行為は無意味なのか?
私は決して無意味ではないと思う。
祈ることは確率を上げることでなく、祈っている自分自身に効果を及ぼすものなのだ。

祈るとき、人は「不安」もしくは「期待」のどちらかの感情を持っている。

まずは不安の場合から考えてみよう。
人は不安になった時、何かをしてごまかすか何かにすがる。
こういったとき、すがる対象として便利なのが「神」の存在である。
普段は特に意識していなくても、すがる対象が欲しいときにはついすがってしまう。
神は基本的に超越した力を持つという認識であるため、どうなるか分からない時、神は祈るのには都合の良い存在なのだ。
なお、これらの推測は日本人的考え方であり、特定の宗教を信仰している場合はその限りでないことを言っておこう。
つまり、宗教的考えが薄い日本人は不安を覚えた時、神に祈ることで不安から逃れようとしているのだ。

次に期待についてだ。
先の不安の場合は逃れたいがためだったが、期待の場合は少し違う。
期待をしている人が祈る時、願望の実現を願っていることだろう。
宝くじの場合は大金が当たっていてほしい、テストの場合は高得点であってほしい。
こうした期待から生じる高揚感からおもわず祈ってしまうのだ。

どちらの場合も精神的要因から祈っていることが推測できた。
精神が及ぼす影響力はとても大きいので、祈るという行為はとても重要なことであるといえる。

思えば遥か昔から人は祈っていた。
当時は豊作や雨ごい、災害に対してだったが。
もしかすると人は祈らざるを得ないのかもしれない。





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