見出し画像

「有限」によって食の楽しさは増大する

私は家でどうしてもやる気が出ないときに
どこかしらのカフェに赴き、
作業をすることがある。

その候補の一つとして
スタバが存在している。


今日も家で怠惰してしまう癖を存分に発揮したため
スタバに場所を移し強制的に自律させる試みをした。

流石に環境を変えただけあって
自堕落な一面はほとんど顔を出すことはない。


そんな真面目な作業中、
一口サイズのケーキをサービスとして
ありがたいことに頂いた。

何味だったのかははっきりとは覚えていない。

確か頂いた際に店員が味の説明をしていたが
残念ながらさっぱり記憶に残っておらず、
食べてみてもこれは何味だなとも断定できなかった。

ただ漠然と「美味しい」という
語彙力皆無の感想だけが記憶として残っている。


約1分少々でケーキを食べ終えた私は
少しばかり何味だかわからないが
美味しかったケーキの余韻にただ浸っていた。

やはり一口サイズなため
あのケーキがすぐに恋しくなった。

もっと大きいサイズならば
満足感がさらに残るのだろうか。

もっと時間をかけて食べれば
よかったのだろうか。

こうした無意味な自問自答を繰り返したのち
すでにケーキはないんだから
考えてもしょうがないと思い、
作業を再開しようとキーボードに手を置いた。

その時、少し前に旅行に行った時の
一場面がふと脳裏をよぎり、
考えたくなった。



それは同期と旅行中、
確か帰りの新幹線まで時間があるので
プリンを揃って食べている時の一幕だった。

その時同じ現場にいたのは
私を含め三人。

各々プリンを購入し、
席に着くがそこからの行動に大きく差異があった。

私はシールで封をしてあるプリンだったため
席に着いたのちその封を切ろうとした。

しかし私以外の二人は
インスタに上げるためなのか
おもむろにプリンの写真を揃って撮り始めた。

この時点で大きく行動が違うが、
食べる段階においても違いは明白だった。


彼らは噛みしめるように
時間をかけてプリンを食べていたのに対し、
私は味わってはいるものの彼らの3〜5倍の速さで
食べ終わってしまった。

私がプリンが美味しかったなと余韻に浸っている所、
食べるのが早いなどのツッコミを受けた。

私はその時食べることに関して何かルールのような、
哲学のようなものが私にあるのではないかと
思わず考えてしまった。

しかしその時は特に答えは出ず、
絞り出たものはプリンが美味しかったという
単純明快な感想だけである。



改めてこの疑問を考えると
これを紐解く鍵になるのは
同じ旅行中の一幕であろう。

確かその時はどこかの店で
揃ってスイーツを食べている時であった。

抹茶のよもぎ餅を注文した私は
その美味しさに感動していた。

普段は時間をかけずに食べ終えてしまうが
食べるのが惜しく感じるほどである。

その時の心情としては
食べたらその分なくなってしまうので
食べたくはない。

しかし食べないと美味しさを感じられないので
食べたい。

この相反する欲望に悩まされていた。

結局は食べてしまうのだが、
この悩まされている状況こそが
私にとっての「食を楽しむこと」
に対する漠然とした解であると思う。


つまり、私が「食を楽しんでいる」
と思われる状況は推測するに、
美味しいものを食べている時
名残惜しくなったり食べることが勿体無くなる状況
ということだと思われる。

これは自由と類似している点がある。

自由は不自由があって初めて自由というものが
生まれるのであって、
常に自由であるという状況であると
自由と感じない・感じずらくなる。

噛み砕いていうのであれば、
会社や学校がある時の休日は貴重に感じるが
長期の休みであると平常時より
貴重性が失われるということだ。

より本質的な所に踏み込むのであれば、
「有限」ということが重要なのだと思う。


有限であるからこそよもぎ餅とプリンは
あれほど美味しかったと感じたのであろう。

例えばあの二つが常に自宅にあるのであれば
美味しいとは感じるだろうが、
ルーティン的に食べるだけになると思われる。

常に食べれられる状況ということは
擬似的な「無限」であり、
貴重性を損なわせてしまう。

つまりあのよもぎ餅とプリンは、
旅行先という有限性を持ってして
美味しさに拍車がかかったはずだ。

特によもぎ餅はプリンとは違い、
食べたいという欲求と一時的にではあるが
対抗した食べるとなくなるから勿体無いという
状況にまでなったためかなり楽しんだと言えるだろう。


有限性に着目するのであれば、
他の楽しさをもたらすコンテンツにも
大いに効果を発揮するはずだ。

例えば旅行。

旅行といえば時間、行動、人などに代表される
有限性が大いに発揮される状況だ。

これで楽しくならないというのは
有限性でもカバーできないほどの
マイナス要素がその旅行に含まれている証拠だろう。

すなわち旅行=楽しいという等式は
とても成立しやすいものである。

旅行という存在自体が有限性の塊であるからだ。



ただし、物語に関しては有限性が効力を発揮するかは
少々怪しいところがある。

物語の具体例を出すのであれば
映画や本、動画や劇、漫才なども含まれるだろう。

一般論で言えば大体の作品は
1回目に見聞きした時が一番面白く感じる。

それは物語というコンテンツが「未知」
楽しむものであるからだ。

稀に考察部分であったり小ネタという部分において
2回目以降でも十分に楽しめる作品も存在するが、
それは一般論で言えば例外的であると言える。

宣伝文句にありがちな
「記憶を消してもう一度見たい」
などがそれを証明していると言えるだろう。

物語において私が考える本質的な部分は
「未知」であるため「有限」が
効力を発揮しずらいのは半ば必然的である。



私が無意識に抱いていた食に対する哲学とまでは
言い難いが法則めいたものを、
旅行から時を経てようやく理解できた。

かなり晴れ晴れとした気分になった。

これからは様々なコンテンツに対し
「有限」というものさしで考えてみても
面白いかもしれない。





という気づきを得られたはいいものの
私の目の前にあるタスクは一向に終わっていない上、
時間もかなり経ってしまった。

私は食事に対する考え方として「有限」を
気づくことができたが、
しなければいけないことに対する
時間の「有限」からは目を背けていたようだ。

正直こんなタイミングでnoteを書くべきでなかったと
今更反省している。

どうしてこうも長々と食事について考え出したのか。

きっかけは一体何だったのか。

記憶を遡るとスタバのサービスで頂いた
ケーキであることを思い出した。

あの何味かはわからないがとにかく美味しかったケーキが
長考するためのトリガーになってしまうとは。

あの時笑顔で私にケーキをくださった店員の方も
想像すらしていないだろう。

サービスで頂いたケーキを爆速で食べたのち、
突然パソコンに向かって難しい顔をしながら
「食事は「有限」が重要な要素である」
哲学チックなことを約3000字も書き始めるとは。

とにかく一刻も早く作業しなければならないので
この長く拙い文章における重要なところを
総括して終わりにしたい。

結論から言うと、
スタバのケーキとプリンと
抹茶のよもぎ餅はとても美味しい。

もっと言えば全部もう一度食べたいし、
あのケーキは何味だったのかがとても気になる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?