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死の足音が聞こえぬ幸せ

自分の場合でも他人の場合でも
死の足音が聞こえれば、
自然と恐怖を覚えるものである。

高いところに行って怖くなるのは
落ちたら死んでしまうと感じるためで、
そこでは死の足音が聞こえている。


私は最近死の足音を聞いて
怖くなってしまった。

祖父母に関して、
ガンが見つかったり若干認知症気味
だと聞いた。

私はショックを受けた。

なんせ元気な姿をずっと見ていた分、
これから徐々に弱って行く過程や、
認知症気味になってしまうのが怖いのだ。

人間はいつか死ぬ。

これは不変の真理であり、
何者も抗うことができない。

しかし普段からそんなことを意識していない。

終活などを視野に入れている場合は別だが、
大方の人は死と無縁であるからだ。

そしてこうした場面に巡り会うと
再度意識せざるを得ない。

太古の昔から恐怖の対象であった
死は常に近くにあるという事を。


死が怖いといっても
いくつかのパターンがあると考えている。

まずは死そのものが怖いパターン。

次に死後がどうなっているか未知が故の恐怖。

これは死そのものが怖いのと
かなり類似している。

違いといえば焦点が死にあるか、
死後にあるかの違いだろう。

最後に死ぬことによって
今の生活を失ってしまう恐怖。

死んでしまったらこの世にいられない。

強制的に今の生活と永遠にさよならだ。

人は何かを無くすことに恐怖を感じる。

その最大級が死に値するだろう。



日本で生活している場合、
死を感じる場面はかなり限られている。

報道される殺人事件などは
もはや人々にとって情報となっており、
死を実感するにはやや厳しい。

最も実感できるのは
身近な者の死だろう。

身近なものがいなくなるのは
とても辛いことである。

そしてブルーな気持ちの時は
より波及して考えてしまう。

まだ生きているものが
もし死んでしまったら。

そんな事を考えても何も起こらないのに。

死というのは当人以外にも
かなり大きい影響を与えるものだ。

それは死の足音でも効果を発揮している。

まさに私がそれに近い状況だ。

いつもよりもネガティブになっている。

むしろポジティブになる方が
どうかしている。



祖父母に関してはある程度
覚悟しなければならないだろう。

私の役目としては
元気なうちに会っておく事と、
万が一の時は冷静である事だ。

お葬式や通夜というのは
時間もお金も多く取られ、
精神もかなりきつくなる。

そんな厳しい状況で
親の負担を減らすことが
私のできる最大限の貢献だ。

万が一のことがあればもちろん悲しい。

しかし私以上に悲しいはずなのは
祖父母の子である私の母だ。

そこで支えるのが
息子としての責務だと思っている。


皆様がどんな境遇かはわからない。

もしかしたら同じように
覚悟が必要な方もいるだろう。

しかし多くは気にしていないのでは
なかろうか。

しかしそれは非常に幸せな事だ。

今はそのわかりにくい幸せを
噛み締めて欲しい。

いつかその幸せは
なくなってしまうのだから。


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