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年号によって物語を見出す

新元号の令和が発表され
しばらく経った。

皆様の感想はどうだろうか?

中には「令」という字が
「命令」を連想するという意見も
見かけることもあるが、
概ね受け入れられているだろう。


しかし昔から元号廃止論を
支持している人たちはいる。

彼らは効率を重視しているのか、
はたまた天皇主権の一つとして
元号を見なしているのか。

確かに現代は西暦を主に使っており、
国際的にもそのほうがわかりやすい。

システム面や手続きにおいても
全てを西暦に統一した方が
ことはスムーズに進むかもしれない。


だが、本当にそれでいいのだろうか?

私は元号というものが
日本にあるべきだと思っている。


新元号発表により、
巷では万葉集にスポットが当たっている。

令和が万葉集から出典だったため、
注目が集まっている形だ。

今まで日の目を浴びなかった
万葉集がここにきて
浴び始めたのだ。

年号が変わると
こうした副産物が生じる。

変化というのは
多かれ少なかれ別のところにも
影響を及ぼすのだ。


さらに、私は年号に限らず
時間に区切りをつける行為は
必要なことだと考える。

記念日などはその最もたる例だ。

その日に至るまでは
1日1日の積み重ねであるが、
1周年記念などがあれば、
それを祝い、一年を回顧する日が
現れる。

ただ過ごすことでは得られない、
記念日ならではの特別な時間である。



時間に区切りをつけるという行為は
実はかなり大きい意味が
あるはずだ。

先に述べた記念日のような
特別感を醸し出せることは
もちろんである。

そのほかにも
時間に空間性を持たせることが
できるのだ。

ネットで黄文葦という方が
こんなことをいっていた。

西暦は時間軸、元号は時間軸中の空間物語である。西暦は歴史の望遠鏡、元号は歴史の顕微鏡である。ある元号を思えば、その時代の物語を思い出す。

<在日中国人のブログ>中国に元号が再びあったらいい:レコードチャイナ
https://www.recordchina.co.jp/b699381-s120-c60-d1120.html

私はこの言葉をみたときに
とても感心してしまった。

私の言いたいことを
綺麗に表現していて
驚いた。

西暦とはまさに時間軸であり、
それ単体では物語を作ることは
少し難儀である。

何しろ超大作の物語であり、
一章二章というように
何かで分けられていないからだ。

そこに年号という枠組みがあれば。

途端にその年代は
西暦上の出来事でありながら
物語が自然と出来上がる。

昭和はああだった。

平成はこうだった。

これらふたつは連続しているのに
まるで明らかに違うとでも言わんばかりに
よく比較されている。

それは昭和には昭和の、
平成には平成の物語が
人々の中に出来上がるからだと
私は考える。


私たちが生きている、
あるいは先人たちが生きた証である
今日までの蓄積された歴史。

思えば年号以外にも
歴史の教科書では江戸時代
といったように
自然と枠組みができている。

過去も今と同じように
1日が連続しているにすぎない。

ただ、その数が膨大すぎるがゆえに
どこかで区切りをつけ、
歴史という超大作の物語を
わかりやすくしなければ
ならないのだ。


もしも時代という概念がなければ、
歴史というのは少々味気ないものに
なっていただろう。

ハリーポッターを
タイトルで分けることなく、
さらにはなんの区切りもなく
読んでしまうのと同じようなことだ。

印象にも残りにくく、
なんせ読みづらい。

そういった側面から
私は年号が日本にあるべきだと考える。


令和という時代が
どんな時代になるのか。

まだ始まってもいないため
何もわからない。

しかし、平成がどんな時代かを
回顧するのと同じく、
令和も同じ運命を辿るのは
自明であるだろう。

私たち一人一人が
令和とはどんな時代だったかを
語ることのできる
生き証人となるのだ。

そして令和を彩る内の
一人であることも確かである。




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