より良い自己認識のために

以下は、主に筆者個人についての覚え書きの意味で書いたものであることをあらかじめお断りしておく。

1)どのみち他者との比較からは逃れられないこと

 一般に、世の中で仕事を持ち、生活の糧を得ていく必要のある普通の人であれば、通常「人としての様々な能力や資質について、他者と自分を比較しながら、対処の仕方をあれこれ考えつつ毎日やり過ごしてゆく」ことから逃れることはできないであろう。そもそも、学生生活や社会人のスタートからして、各種の試験を始めとして他者との競争は避けられず、その後も周囲の人とのせめぎ合いを延々と経験しながら生きてゆかざるを得ない。また、競争試験ではなくて、一定の基準を満たすかどうかが合否の判定基準となる資格試験、例えば医師国家試験であっても、一定水準以上の医学知識を修めているかどうかが問われているとはいえ、現代の標準的な能力の他の医師との比較をしていることと同じであり、資格試験であっても他者と比較していることには変わりがない。また、すこし極端な例かもしれないが、たとえば17世紀に天才であったニュートンが、21世紀に現代の高校生として生まれ変わったとして、万有引力を自然の観察から自力で発見したとしても、そこそこ優秀な高校生でしかないだろう。つまり、仮に天才であったとしても、周囲の人間との比較は避けられないと言える。絶対的な天才というのはいないのである(もっとも、人類の全歴史上には絶対的な天才は例外的に存在するとは思うが、一般論としては正しいと思う)。であるから、絶対的天才ですら普通には存在しないのに、この自分が他者との比較を拒否して、単に自己評価だけで生きていけると思うことは控えめに言っても不可能である。ここで一応補足すると、もちろん、例えば無人島で自給自足で生きている人間であるとか、あるいは出家した僧であるとか、または、仕事は別として、それ以外の趣味の世界で自分だけの基準クリアを生きがいにして過ごしてゆくような生き方であれば、他者との比較をそれほどには意識せず、生きていくことは可能であろう。しかしながら、これがこと仕事となれば、言うまでもなく顧客(患者)との現実的な意味での厳しいやり取りが不可欠であり、同業他者との仕事内容レベルの比較は避けようもない。現代に働いて生きてゆくのであれば、時代遅れで自己満足の仕事をしているわけにはいかないのである。

2)他者との比較で生じやすい感情

 上で、普通の人が生きていく上で、他者との比較は避けることができないということを書いたが、もしも他者との比較をした上で、それでも自分自身の心が穏やかで、自分の為すべきことを淡々とやっていけるならば、特に言うことはないのであるが、実際にはそのような心の状態でいることはなかなか難しく(少なくとも私の場合である)、さまざまな感情、特に優越感や劣等感にいろいろな程度で乱されてしまうことが多い。他者と比較して、「事実として」自分はこれこれこの程度の力がある、あるいは力がない、ということを客観的に眺める必要があるのに、結果として冷静でいられず、何事かをなす気力が失せたり、努力不足に陥ったりする危険が高まってしまう。果たして一般的な人間に、優越感や劣等感から超然と距離を取るような精神的な力がそもそも存在するのであろうか。少なくとも私にはそのような超然とした力はない。だが、考えを振り返ってみると、もしかしたらそもそも超然とする必要などないのかも知れない。

3)もっとも望ましい形の自己認識

 仮に自分自身を冷静かつ客観的に眺めたとして、「自分は平均的な人々より優れている」という結論になるのか、それとも「自分は相当に低いレベルの人間でしかない」という結論に至るのであろうか。私は、諸々の能力について、冷静に他者と自分とを客観的に比較する必要があるとは書いたが、それよりも一層大切と思われる自己評価のしかたについて述べたい。それは、自分自身を「とても優秀な人」でもなく、その逆に「とても低レベルの人間」とも評価せず、「平凡で、他の人とそれほど変わらない、どこにでもいる平均的な人間である」と評価するのが望ましく、それこそがある意味(自己の向上を目指す上で)もっとも効率の良い自己評価のしかたであると思うのである。
その意味するところは、仮に自分自身がとても優秀な人間であると自己評価したとして、益より害が上回る可能性が高いと思うからである(←もっともこのことが自分自身の平凡性の証明であるとも言えるが)。逆に、自分を劣等な人間であると自己評価したとしても、同様に益より害の方が大きくなる可能性が高いと考えるのである。一方、もし自分を「平均的な人間である」と評価するならば、そもそも平均的というのはいろいろな指標に関してもっとも「それらしい」ということであり、自分がその集団あたりに属する確率が客観的に言っても高いわけであるし、おおよそ人にとってあてはまるさまざまな「望ましい生き方」、つまり勉強の仕方であるとか、心の持ち方であるとか、そういうことが高い確率で自分自身に納得できる形で適用できるようになる。

 結局、人より優れているという自己評価、あるいはその逆の、人より劣っているという自己評価は、よほどのことがない限りどうしても優越感や劣等感を伴いやすく、日々の安定した向上のための努力には害になりやすいので、自身が平凡であると認識しておくことは、そのような感情から一定の距離を置くことができるので、より良い生き方につながりやすいと考えるのである。

4)補足

ここでまた補足説明すると、いま述べたことは「実は優秀なのに、無理に自分は平凡であると思わなければならない」ということでもなく、また、「実は相当に程度の低い人間であるのに、平均的な人間のように装わなければならない」という意味のことを述べているわけではない。そうではなくて、おおよそ人というのは他者より優れている部分もあれば、劣っている部分もあり、さまざまなレベルの資質がたくさん入り混じっている存在である。また、時間と共に、あっという間に人より劣ってしまったり、その逆で頭角を現したりすることもある存在である。であるから、瞬間的に人間のごく一部の能力についてだけ優劣判定しても、むしろ客観的評価とは言えないであろう。さらには、仮に平凡な人間であっても、「自分は優れた人間像や理想を知っているので、目標があるから、その点だけでも目標のない周囲の人とは違う」というタイプの優越感も生じ得る。また、「自分は中途半端な優越感に容易に取り憑かれてしまう、とてもレベルの低い鼻持ちならない人間でしかない」という劣等感を持ってしまうこともあり得る。ことほど左様に、人というものは、どのようにしても優越感や劣等感を容易に持ってしまう存在であると私は思う。なので、仮に自分が人より優秀だろうが劣っていようが、あくまで「平凡性を忘れず」、自己の寄って立つスタンスを動かさない、そしていつでも自分自身の「自惚れと卑下から自由でいる」ことが大事であり、それこそが、(反語的ではあるが)「自分自身に客観的な態度」であると考えるわけである。

「自分を、何か特殊な人間のように誤って認識しないこと。確かに『普通である』ことを正確に理解すること。」

で、このような文章を書き綴ったことそのものについても、「いい文章が書けたな」と自慢するわけでもなく、「いい歳をしてこの程度のことがようやくわかったのかい」と劣等感を持つわけでもなく、今の自分の足場に立った、ごく普通の覚え書き(の途中経過)を書いたということで心に留めておきたい。

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