心の自由度を上げるには

人は日々過ごしてゆく中で、種々雑多なことに取り込み、その際いろいろなことを考え思い、あれこれ悩みながら進む方向を選択し、人生を歩んでいる。ある時は取り組んでいる事柄が、自身にとって快い事柄で、ずっと取り組んでいたいと思う時もあれば、逆に不快であり、できるだけすぐに片付けてしまい、今後は二度としたくないと思う時もあるだろう。常識で考えれば、人は一般に快不快にはできるだけ左右されないようにし、やるべきと思ったことを淡々と行えばよいと思われるし、それはおおむね正しいと思う。より進んで、人はさらに次のように考えるかもしれない。できれば「やるべき」ことと「やりたい」ことが一致していて、やるべきことが毎日楽しく、苦痛を感じなければそれが理想ではないか、と。だが、人にとって、やるべき事柄と好きな事柄が一致していることは本当に理想的なことだろうか。

私には必ずしもそうとは言い切れないと思われる。逆に、人が生きていく上で心に留めておくべき考え方があると思う。それは、「自身にとって快い、ある意味取り組みやすいことというのは、むしろ敢えて避けるように動いたほうが先々の自分にとって有用に働くのではないか」ということである。人にとって、「快い、やりやすいことをむしろやらない」ことが、ある意味望ましい場合があると思えるのである。さらには、「一般に物事の好き嫌いは、ある程度は自身でコントロールできるものであり、やるべきことが自身にとって快く感じることができるよう、コントロールすればよいではないか」との考えも理解できるが、まずそういうことがいつでも可能なわけではないし、仮にできたとしても、それは理想とは言えず、無理に物事を快く感じられるよう心に強制することは、勧められることではないと思うのである。

その意味は、快いことというのは、常に人を引きずってしまいやすい事柄であり、人の行動に強く影響を与える事柄なので、快いことからは日頃より距離を取るよう注意して生きてゆくほうが、最終的には自由な心で過ごせるのではないかと思うのである。無論、快いことというのは、人の行動をとても加速する効用があり、大変捨てがたい感情であることはよくわかる。「好きこそものの上手なれ」とも言うし、論語にも「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」とあるように。学問の研究でも、昼夜問わずに没頭し、集中し続けることが成果を上げるのに不可欠な場面もあるとは思う。しかし、肉体には普段から適度な運動が必要なように、心にも普段からある程度負荷をかけて鍛錬しておかないと、自分の本当に思うような生き方は最終的には難しくなるのではないだろうか。

人は、身体も心も共に、いつでも不完全で変動しやすいものであると私は思う。なので、あらかじめ計画された、完成した行動基準に従って、いついかなる時でも完璧に心身を動かして行動してゆくことはほとんど不可能と思えるから、もしも心身の状態をできるだけ良い状態に保ち続けたいのであれば、身体には適度な運動、心にも適度な負荷をかけながら過ごしていくことが、より良いのだと考えるのである。日頃から「進んでしたくはない事柄」も、やるべき事なのであれば進んでやること。進んでしたくないことであるからこそ、自身の心のトレーニングになっており、ラッキーとさえ思えること。もちろん極端に走って、難行苦行を追い求めるようだと、それはそれで問題とは思うが。なので、あくまで適度に、身体にとって適度な運動が大事なことと同様、心にも適度な負荷を与えることが有用だろうということ。現実に身体と心に与えられた、この不安定な移ろいやすい、楽をしていると退化してしまいやすい状態こそ、もともと人に与えられた、避けることのできない初期条件であろうから。仕事であってもそうでなくても、やろうと決めたことは田畑を耕すように時間を決めて、ルーティンのように淡々と、情熱に過度に振り回されることなく、行っていくのがよいのだと思う。

このように考えると、いわゆる「仕事が趣味」という人が世の中にいるのかもしれないが、そういう人の心の状態は、最終的に目指すようなものではないと思われる。

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