1992 第三夜(全四話)
僕は中学時代バレー部だった。
なんでバレー部だったんだろう。
なんとなく、身の回りには運動部の方がいいという圧力が存在していた。運動部のほうが内申点がどうのという都市伝説的なものもあった。
いわゆる運動音痴であった僕は、せめて小学校でみんながやってないスポーツであればスタート時点での差が少ないからまだマシと思った記憶がある。
そして、入学した高校には、中学時代のバレー部の先輩がいた。
児童館時代、小学校時代から知ってる先輩で、
頭が良くてスポーツ万能で面白くてかっこいいという憧れの対象であった。
その先輩に挨拶に行くと、そのまま仮入部という扱いになってしまった。先輩の代である二年生は、部員が二人しかいなく、一年生の勧誘に必死であった。バレーボールは下手なりに好きだったし、断ったら申し訳ないという気持ちもあったが、迷いもあった。
美術の授業が受けられないのであれば、美術部に入れば絵が描ける。美術部に入りたいな。と。
バレー部の顧問に兼部してもいいか質問に行ったが、ダメの一言で会話が終わった。
高校1年の春は忙しい。
入学した高校は、修学旅行がない代わりに、高校一年の春にいきなり研修旅行なるものがあった。
3泊ほどで、山の中でオリエンテーリングやキャンプファイヤー的な催しもあったようななかったような...
それが終わると、すぐに部活の合宿がはじまった。二年生と三年生は既に合宿が始まっており、研修旅行から帰ってきた一年生が合流するという形式であったため、自宅には荷物を交換しに帰っただけだったかもしれない。
この合宿あたりで、バレー部の新入部員たちは、この部活の顧問がとんでもなく恐ろしいということを思い知るのだった。
殴る・蹴る・どつく・パイプ椅子投げる は日常だった。
僕たちは、パイプ椅子に座った顧問が足を組み替えるだけでもビクビクしていた。
そんな合宿が終わり、帰宅して、何日も立たないと思う。
夜寝ていると、腰から腹に回りこむような鈍痛が襲った。
僕はあまりの痛みに呻き、のたうった。起きてきた母に近くにある大きな病院に連れていってもらい、そのまま入院となった。この夜をどうやり過ごしたかは覚えてない。
翌日から色々な検査が始まった。腰から腹に回り込むような痛みは腎臓絡みの可能性が高く、まずは尿管結石が疑われた。
造影剤を体内に入れてレントゲンを撮る検査で左の腎臓が映らず、左の腎臓が全く機能してないことが判明した。
その病院では、腎機能等を専門で診る泌尿器科がなかったので、僕は「県立中央病院」に転院したのだった。
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