1992 第四夜(完結編)

今はどうか知らないが、泌尿器科に入院すると、その晩に必ずされる基本の検査というものがあった。

いろいろとお腹もまれたりしたあとに、陰茎や陰嚢をもまれる。

それが終わると、じゃあ足上げてーと言われるので、ちょっと足をあげると、もっともっとだよ!と言われる。このポーズは何ぐり返しっていうのだろうと思いながら先生を見ると、先生はビニール手袋をはめていた。前立腺の検査だった。

泌尿器科は、ほとんどがおじいさんとおじさんばかりという病棟だった。入院してるおじさんの中に、やたらと腕毛が濃い人がいて、彼は点滴の注射を打つために、スクウェアな形に腕毛を剃られていた。

数日経つと、大きな検査の日がやってきた。
膀胱鏡を用いた検査だ。
周囲が「あれやるのか」的な反応だったことを覚えている。
僕はなにが起こるかちゃんと理解していなかった。

膀胱鏡の検査のための部屋には、分娩台みたいな足を開いて乗せる台があって、当然、そのまんまの羞恥的なポーズになる。

ギャグとしか思えない状況の中、その場にいる全員が真顔なのが、味わい深い雰囲気を醸し出す。真顔の女性の看護師さんによって、尿道の先にゼリー的なものを塗られ、その後、先生に鉛筆的な太さのカメラを入れられる。

これが、痛い。とにかく痛い。
本当に痛い。
もう、本当に痛い。
そして、屈辱的。

検査が終わり、病室に運ばれた僕は、

放心状態だった。

脱力&虚無感。
不謹慎ながら、レイプってこんな感じだろうか。などとよぎっていた。

実は、この検査により、尿道に傷がついてしまう。
その日から数日間、おしっこをするたびに激痛と戦わなければならなかった。

いろいろな検査の結果、左の尿管が潰れて癒着し、腎臓から膀胱に液体を送れなくなった尿管が膨れ上がっていることがわかり、この尿管の形を直す手術が行われた。

手術後は一週間ほど寝たきりで、トイレにもいけない。

尿の他、血や膿を外に出すため、その間ずっとカテーテルが入れっぱなしであった。

カテーテルは、どういう仕組みか理解してないが、なにかの拍子で抜けてしまわないようにストッパー的な細工がしてあった。

これが、「通常時」サイズに合わせて固定されているのだ。

散々な目に合っても、そこは高校1年生。
毎朝の生理現象はやってくる。

「非・通常時サイズ」でも、ストッパーの位置は完全に固定されているため、擬音にすると、「ムギュウ」という言葉がぴったりの状態になるのであった。あの形状はなかなかあり得ない。

体内から排出される液体は、カテーテルの内側を通る。
ところがある日、尿道とカテーテル隙間から、膿的な液体がどろっと出てきていることに気づいた。

焦った。

体内で管が外れたのだろうか。不安が広がる中、いろんな袋をぶら下げたまま、僕はナースステーションに駆け込んだ。

なんか、出てるんです!

看護師さんに説明しながら、僕は、膀胱を通らずに出て来る液体の存在を思い出した。

そして、いや、なんでもないです… 僕はおずおずと部屋に戻った。

考えてみれば、研修旅行、部活の合宿と、怒涛の日々であった。

中学の保健体育の授業で習ったことを僕は生真面目に捉えていた。
「毎日、一億匹が製造されます。」
「一度に3〜4億匹出ます。」

そう習った僕は、週に2回出せばいいんだなと理解し、実践していたので、不意に出してしまうという経験がなかったのだ。

そんなこんなで退院して学校に戻ると、

バレー部の新入部員は、ほとんどが辞めていた。

顧問が怖いからだという。

一年生は、僕を入れて4人。
二年生は、二人。
3年生は引退し、部員は6人になった。

そう、僕は尿道にカテーテル入れて寝てる間にレギュラーの座を獲得したのであった。

もう、辞められないんだなと諦めた。
美術部、入りたかったな。

こうして、僕の高校生活は始まったのだった。

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