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ディア・ハンターとゴールデンカムイ

出来立てほやほやの吉祥寺アップリンク で、ディア・ハンターのデジタルリマスター版見てきた。私が小中学生ぐらいの頃には、よくテレビの洋画劇場とかでやってて何度も観たはずなのに、自分が子供だったからよくわかってなかった部分が結構たくさんあったんだなーと思う。

出口感のないアメリカの小さな田舎町の濃密な人間関係、結婚式や葬式の舞台がロシア正教会であることや、ニックの名前などから察せられる若者たちの出自、マイクが紹介される女に興味を示さないためにホモ呼ばわりされていたこと、全体の尺の中でベトナム戦争のシーンは思いのほか短かかったこと、サイゴンの賭場の胴元らしき男はなぜフランス語を喋るのか、昔見たときは不自然な蛇足に思えたラストの「ゴッド・ブレス・アメリカ」の歌詞「マイ・ホーム」が移民の子である彼らにとってどれほどの苦味を持っているのか…

こういうディテールの巧みさ、しかも作品がサイゴン陥落から僅か三年で世に出ているということに改めて気づいて唸ってしまった。映画が当時のアメリカ社会に向けたメッセージの強さを、ようやく理解できた気がする。

昔見た時には、戦場で傷つき精神を病んでいく友人たちに対して職業軍人並みの強靭な精神力を持ち得ているように見えたデニーロ演じる主人公のマイクが、ニックと同じように傷ついた「戦場から心が帰れない」ままの青年であることにも、自分が大人になってみてようやく気づけた。

こんな風に感じるのは、最近ゴールデンカムイの漫画を読み倒してることと無縁ではないなーと思う。

アイヌの埋蔵金探し、という謎解き冒険活劇風に始まった漫画だったけど、話が進むにつれ金塊争奪戦に関わる一人一人の人物のバックグラウンドが描かれるようになり、ああ、これは戦場から体だけは帰ってきたけど心が帰ってこられない男たちの話なんだ…と個人的に腑に落ちたばかりで。このタイミングで久しぶりにディア・ハンター見て良かったな、と思う。

例えば、戦争から帰ったマイクが鹿狩りに出かけて、鹿を撃てずに逃がしてしまうシーン。昔見たときには、マイクがサイゴンの賭場で見かけたニックを逃してしまったこと、その後の展開で再びニックを連れ戻し損なうことへの暗喩、という風に受け取ってたんだけど、今回見たときはそれだけじゃなく、ゴールデンカムイの杉元と鹿のこの↓エピソードを連想してた。

杉元は、懸命に生きようとする鹿を戦場の自分自身に重ねて引き金を引くことが出来ない。それは心が日常から戦場に引き戻されているからだ。

同じように、文字通り命を賭ける勝負を経て生き延びたマイクが鹿を「狩る」ことから追体験している感覚は何なのか、スタンが持ち歩く銃に向ける嫌悪感の根にあるものは何なのか。何故マイクは軍服を脱げないのか、サイゴンの賭場でマイクの説得に一瞬正気を取り戻したニックは、何故引き金を引いたのか。

正気でなければ生き延びられず、正気であれば到底心が耐えきれない、という戦場の狂気と矛盾、社会問題化した帰還兵たちのPTSD、職業軍人ではなく裕福でもない若者たちが戦争に駆り出され日常に戻れなくなる戦争の罪深さを、深く静かに糾弾する作品だったんだなぁ、と改めて。単に戦場が怖すぎて頭がおかしくなっちゃった若者の悲劇っていう話じゃないんだ。彼らを移民の若者に設定することで、アメリカの社会構造の問題という部分にまで踏み込んでる。

話はズレるが、アニメ版のBANANA FISHがアッシュにおされな服着せたい的な下らん理由でベトナム戦争後の1980年代から時代を改変されたことは記憶に新しいが、このクソ改変をやらかした製作陣には、ディア・ハンターぐらいは見たのか?と問いたい。

この戦争だったからこそ兵士たちの間に粗悪なドラッグが出回るという物語の発端にリアリティがあり、アッシュの兄の友人でありベトナム帰還兵でもあるマイクがマフィア絡みの面倒なトラブルに積極的に関わることにも理由があるのだ、ということが、アニメ製作陣にはわからなかったのか?原作厨は、単にBL向けのエイジのキャラデザに憤慨してるだけではないのだ。

ディア・ハンターに話を戻すと、戦争映画の割に長すぎない?っていう日常の象徴として、とことん詳細に描かれた結婚式シーン。この作品がスタンを演じたジョン・カザールの遺作であり(作品封切を待たず病没)、彼が当時メリル・ストリープと婚約していたことを思うと、ここには余計にこみ上げるものがある。戻れない時、戻れない場所。いろんな意味で真似のできない、二度と作れない映画だと思う。

ゴールデンカムイの上記のシーン後の杉元は、アイヌの少女であるヒロインのアシリパに、生き物の命を有り難くいただいて自分の血肉として感謝しながら生きるんだ、という「アイヌにとっての日常」を教えられることで、狩をする日常の自分と過去の戦場での自分を切り離すことが出来るようになり、引き金も引けるようにもなるんだけど、それでも(しばしば杉元自身によっても)繰り返されるのは、日常へ帰ることができない男たちというモチーフだ。

それぞれが違う事情を抱えながらも一様に過去に囚われている男たちに対して、この漫画の女たちは、自分の意思で未来へ進む存在として描かれる。連載最新話で描かれた、月島とロシア人の家出娘、尾形とアシリパがそれぞれに対峙する姿も「自分の過去や組織・社会における自分の役割に囚われている男」「自分が知らない世界を知るために自由な意思で前進する女」の対立としてシンクロしている。こういうところもこの作品の新しさのひとつだな、と思う。

金塊をめぐる暗号の鍵もそろそろ開示されようとしていて、年明けから新たな急展開が待ち受けてそうだけど、この帰れない男たちという裏テーマがどういう風に決着するのかという点には個人的には金塊以上に興味があるので、ほんと色々楽しみ。

なお、この物語は1907年前後が舞台らしいのだが、現実の歴史を振り返ると、旧土人保護法という先住民族に対する差別的法律は1997年にいわゆるアイヌ新法に置き換わり、2007年には国連で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される。ヒロインのアシリパは、おそらく1894年か95年ぐらいの生まれなので、これに先立つ1992年の国連総会「世界の先住民の国際年」でのアイヌ代表による記念演説の時には、高齢ながら存命の可能性がある。

漫画が始まった頃には、成人男性と幼い女の子の組み合わせが主人公として新しい!大人の男女の組み合わせで安易に恋愛メインにならないとこがいい!というようなことが話題になったけど、この辺の未来を見越した上での主人公たちの年齢設定なのかも知れない。

史実に従えば、物語に登場する男たちは金塊争奪戦を生き延びたところで大半が「次の戦争」で死ぬ運命にあると思われる。未来に進む、新しい時代の力強い女たちが、今後作中でどう扱われるかによって、最終的にどんな作品になるのかが決まっていくんだろうなぁ。

あと完全に余談だけど、私の中の尾形百之助の見た目のイメージって、概ねディア・ハンターの時期のデニーロだったりする。少しずんぐりした体つき、いわゆる甘いマスクのハンサムではないけどそこそこ整った目鼻立ち、軍服が似合うとことか。キャラはぜんぜん違うけど。

並べてみた。誰かにわかって欲しいこの感じ…

すっかりゴールデンカムイ話になってしまったので、最後にディア・ハンターの話をもう一度、真面目に。

ベトナム戦争はアメリカにとって、大規模徴兵をして闘った(今のところ)最後の戦争ということになるかと思うが、それでも現在に至るまで「経済的徴兵」の問題は残っている。徴兵なんてよその国の話と思うかも知れないけど、超高齢化と人口減のフェーズに入った日本の社会にとっては他人事ではない。それを意識した上でこの作品を見直す(あるいは初めて見る)機会を多くの人に持って欲しいな、と思った。

日本ゴイスーのプロパガンダには必死だけど巧みな外交による国家間の衝突回避は下手くそで、内向き外交で無駄に敵を増やし続ける近年の日本の姿には、旧帝国の亡霊の姿が重なるかのようだ。日本の軍事支出は既に世界8位(2017年集計)の水準だが、現政権は防衛費の対GDP比を2パーセントにまで上げることを目標としている。もちろん、埋蔵金なんてない。

#映画 #吉祥寺アップリンク #ディアハンター #ゴールデンカムイ #漫画 #戦争 #コンテンツ会議


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