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ささやかなこと。

twitterの古いツイートが何故か掘り出されてバズっており、それを書いたきっかけがはっきり思い出せなくて、なんとなく昔の日記を見てみた。すっかり忘れていた子育て時のエピソードが沢山あって、日記というのは書いておくものだなぁ…と思った。

小学校の参観日、日本史が得意な息子は張り切って何度も手を上げていたのに、先生に指してもらえず、途中から喉をひくひくさせて静かに泣いていたのだ。愛おしくて悲しくて、でも君が歴史得意なことは知ってるよ、ちゃんと見てるよと思ったこと。

部屋でのんびりしていたら息子に「五分測って!」と唐突に言われ、意味もわからず計測してあげたら、普段はまるで片付けをしない息子が、すごいスピードで部屋を片付け綺麗にしてしまったので驚いたこと。

我が家では六年生ぐらいまで(最後の方はリクエストがあれば、だったけど)寝る前の読み聞かせをしてあげていて、最後に読了したのがエンデの「果てしない物語」だったことは覚えていたんだけど、その前の五年生ぐらいの頃には江國香織の「ホテルカクタス」なんかも読みきかせのラインナップに入っていたこと。

震災直後のスーパーの棚が空っぽだった時期に、保護者の奮戦で手作りを含むお菓子や飲み物をかき集め、部活の「六年生を送る会」を地味ながらもどうにか無事に開催できたこと。

父が亡くなる3日前、家でビーフシチューを作っていたら、赤ワインで肉を煮こんでいたせいか息子が「なんかいい気持ちになってきたー」と言い出し、慌てて換気扇のパワーを強にしたこと。

引越し前の夜、すぐ隣の子供部屋から聞こえる息子の寝息に耳をすませ、引越し後は居間を挟んで離れた寝室を使うことになるから、こんな風に寝息が聞こえる部屋で眠るのは今夜が最後なんだな、と思ったこと。

雪の日の朝、小学校の校庭の朝遊びに行くんだ!と張り切って家を飛び出した息子がランドセルを忘れていて、あわてて追いかけたこと。

珍しく静かに集中して勉強してるなぁ…と思って感心していたら「ねぇ見て、割り箸鉄砲できたー」と言われてズッコケたこと。

林間学校に行った息子から、子育て人生で初めての(そして成人した今思い返してみると実に最後の)絵葉書を貰って嬉しかったこと。

寝る前にスタンドの明かりを消そうとしてたら「暗いと怖い」と言うので、「目をつぶって頭の中で100数えてから開けると明るく感じるよ」と言ったら「寝かそうとしてるでしょ」と疑いながらも素直に数を数えだしたらしく、結局そのまま寝入ってしまったこと。

夏バテで疲れてしまって晩ご飯を作る気力がなく、駅の近くの洋食やさんで外食した帰り、サンダルで足が痛い、と言ったら息子が乗ってきた自転車を貸してくれたので、彼が走り、私が自転車漕いで、生温い夏の夜道を二人並んで走ったこと。

カメ、カブトムシ、金魚、カミキリムシ、メダカ…毎回「嫌だ、虫キライ、魚キライ、面倒みきれない」と文句を言いながら、結局飼いたい息子に押し切られ、ずいぶんと色々な生き物を飼ったんだなぁ、ということ。

朝の食卓でこども新聞を広げる姿がなんだかオッさんぽいからやめてほしい、と密かに思っていたこと。

なかなか抜けない子どもの歯があって、歯医者さんで大人の歯が横から出てきちゃいそうだから最悪抜歯かも、と言われ親子で戦慄したこと(そのあと無事に抜けた)。

中学受験の直前に、よりにもよって利き手を捻挫して帰ってきてハラハラしたこと。

小さい頃から息子のヒーローだった阪神の金本の、東京ドームでのホームランを目の前で見たこと。野球部に入った息子に付き合って、ずいぶんプロ野球の試合も観に行った。甲子園にも行ってみたかったけど、いつも本人の部活の練習で行けなかった。

小学校の部活生活最後の対外戦、公式戦でヒットを打ってホームを踏む姿を見たのは、実はあれが初めて(そして最後)だったんだな、ということ。

中学生の最後の朝、息子がコールドプレイのEVERY TEARDROPS IS A WATERFALL をエンドレスで聴いていたこと(いま、私も同じ曲を聴きながらこの文章を書いている)。

全ての些細なことがらを、忘れながら生きている。日々の暮らしの中のささやかな喜びも悲しみも、時間がたてばその大半はきれいさっぱり忘れてしまう。泡沫のような個人的出来事や感情は、思い出されないまま、なかったことになってしまう。

それをどうにか掬い上げることができるのは、文字とか絵とか写真とかの「記録」だけだ。

自分が実際そうだったから言うんだけど、本当に辛いときとか人生がイヤになったときに自分を支えてくれるのは、忘れ果てていたささやかな幸せや喜びの「記録」だ。「記憶」はすぐに吹っ飛んでしまうし改ざんもされるので、あてにならない。

好きだった人のことが嫌いになったとき、どこがどんな風に好きだったのか正確に思い出せる人はそういない。大抵のことは、これが最後になるなんて思っていなかったのに最後になる。だから自分自身のための貯金みたいに、ささやかなことを「記録」しておくのだ。

トップの写真は21歳で大往生したうちのネコ、とらのすけさん。生後半月ほどで親猫とはぐれていたのを拾って育てた。これは亡くなる一年前ぐらいの写真。ゴロゴロ喉を鳴らす時の震動の感触を、これを見れば思い出せる。

今回こうして思い出したことも一年後の私は忘れてしまっていると思う。なので「いま」あらためて記録しておいた。「いつか」の自分のために、ね。

#1904 #日記 #徒然


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