見出し画像

誰も知らない、万引き家族、そして北の国から。

万引き家族、観てきた。カンヌでパルムドールをとったことで、公開前から(しばしば的を外した感じで)話題になっていて、原点回帰っぽいテーマの作品を普通に楽しみにしていた私としては、ノイズが多くて嫌だなぁ、という感じはあったけど、久しぶりにちょっと期待して映画館まで観にいったのだ。

「久しぶりに期待」というのが何故かというと、過去数年の是枝監督の作品は、同じような演者ばかり集めて同じ曲のリミックスを延々聞かされる年次イベントみたいな感じが続いていて、もうやりたいことは終わっちゃったのかなぁ、という気さえして、ロードショーを張り切って見に行く気持ちがなくなっていたからです。

異色作と言われた「三度目の殺人」も実は観に行ってない。だって、あれだけのキャストを揃えて藪の中(羅生門)的なことをやって、面白くならないほうがおかしいと思ったし、そういう作り方には映画業界の保守的なうちわのサークル感も感じたし、テレビで特番とか見ても、この作品が映画言語で語られなければならない必然があまり感じられなくて、なんか見なくてもいいかなぁ、と思ってしまったんだもの。見もしないで言ってるだけだから不当な感じ方かも知れないけれど、でもそんな風に感じてしまった。

何をやってもある程度は確実に売れるクラスになった監督が、ピンで主役はれるクラスの役者何人も集めて手堅いスタッフ揃えて映画撮って、その上新人ひとり発掘することすらしないのって、怠慢なんじゃないの、とも思っちゃって。

そういう次第で、劇場に観に行く気持ちが萎えてしまっていた是枝監督作品なんだけど、今回は製作の話を聞いた時から観に行くつもりだった。なんせあの「誰も知らない」への原点回帰とも受け取れる主題の作品だったから。いい意味で観客の期待を裏切って欲しい、という期待を持ってたんです。

で、見た結果の感想をすごく正直にいうと、私はこれでパルムドールかぁ…とまず思ってしまった。単体の映画としてはよかったけど、「誰も知らない」を超える意外性を期待して見にきた立場としては、正直微妙だった。私がここ数年どうなのよと、思ってきた典型的な是枝作品でもあったし。

なんで「誰も知らない」の時にグランプリとらせてくれなかったんだ…とも思ってしまった。あの年何がグランプリとったんだっけ、と調べてみたらマイケル・ムーアだった。

あの年、カンヌは「誰も知らない」にパルムドールを与える代わりに、本格的な演技は初経験だった柳楽優弥くんに史上最年少での男優賞を与える、という話題性をとった。その後、柳楽くんが一時期芸能界を離れるに至ったのは、カンヌのこのあざといパフォーマンスにも遠因があるよなぁと思うと、今も少し苦々しい気分になってしまう。柳楽くんが無事に大人になり、演技の世界に戻ってきてくれて本当に良かったけれど。

話がズレたけど、本作は安藤サクラもリリー・フランキーも安定の好演で、グッと持って行かれるシーンは数多くあった。樹木希林の演技力も相変わらずエゲツなく、松岡茉優が女優として殻を破ろうとしてる姿にも好感がもてた。どこかで見たインタビューでは、彼女自身は自分の演技が安藤サクラや樹木希林の域に達してないことに満足していないようだったけど、あの人たちは化けもんなんだし、こんなにも真面目で職人的な仕事ぶりを見せる女優さんは、きっと大成すると思う。

子役ももちろんよい。主人公の少年は、子供時代の柳楽優弥くんにそっくりだった。少し肌が浅黒く、内向的な雰囲気で、こぼれ落ちそうな大きな目でじっと見つめてくる。

だけど、映画としては何かと饒舌すぎる気がして、相変わらず上手いなぁと思いつつ、見終わった瞬間にはモヤモヤしてしまった。「誰も知らない」での鋭利な刃物のようなキレがなくなり、バターナイフで押したり引いたりしながら生肉を切られてるような感じがした。うまく言えないけど。

役者だけでなく美術や撮影も、全てにおいて質の高い映画だとも思う。だけど、延々と続くこのリミックスを、どう評価したらいいのか。

良くも悪くも是枝監督の作品っていうのは、昔っからずーっと一貫してると思う。それこそたぶんドキュメンタリー番組時代から続くテーマなんだと思う。

是枝映画には、離婚とか死別とか育児放棄とか子供の取り違えなど、何らかの事情を抱えた「欠陥」家庭と、血の繋がりはなかったり希薄だったりするけど(異父兄弟とか、異母姉妹とか)、擬似家庭を形成しながら生活を営む人々の織りなす風景が、ほぼ毎回なんらかの形で描きこまれている。海街ダイアリーだって、あれはたまたま原作モノだけど、欠損家庭を描いた物語であることにおいては同じで、やはり是枝ワールドの作品だ。

だから、そのことが監督にとってすごく大事なテーマであることはわかる。貧困問題を映画を通じて告発して政治家を動かしたい、なんていう話は、どれだけ外野が騒ごうと実際は二の次三の次なんだろうな、と思う。ただただそういう、人と人の繋がりの歪みとか可能性とかに生理的な引っかかりを感じていて、それを作品で表現しているんだろうな、と。

だけど今回の作品には、引っかり以上の饒舌さを感じて、私はなかなか素直に乗り切れなかった。

「ラブレス」みたいに神経抉られてご飯食べる気力も失せるようなバッドエンドにしろとか言いたいんじゃないんです。そうじゃなくて、今回の作品の特に後半部分の台詞のやり取りの多さは、ちょっと驚くくらいだったのだ。この監督が、こんなにも映像ではなく「言葉」を、しかも大人たちの言葉を重ねてくるのか、と。

◆以下、ネタバレなので、見てない人は回れ右して下さい◆

同じ時期に映画を見た友達が、この映画のリリー・フランキーが「田中邦衛にしか見えない」と言ってて、作品を「邪悪な北の国から」と評していたんだけど、これ、言い得て妙だなと思う。子ども目線のような演出でありながら、大人たちを描いた物語である点など、重なるものがあるなぁと思う。

2004年の「誰も知らない」は、とことん子供の視点で描かれた映画だったと思う。YOUの演じる身勝手な母親は、それでも母性を感じさせるふんわりとしたエピソードと共に描かれる。置き去りにされた子どもたちの母親への憧憬を映像化した感じ。いっぽう淡々と紡ぎだされる子どもたちの困窮の過程はドキュメンタリーのようなタッチで、世界の理不尽さがリアルだった。

あの映画には、小遣いをくれる「おじさん」や、賞味期限切れのおにぎりをくれるコンビニ店員はいても、子どもたちの部屋の中に踏み込んで救ってくれる大人はいない。妹の遺体を埋めにいく少年の真っ黒な瞳は、そのまま映画を見ている大人の私をまっすぐ見据えているようで、とうてい直視できなかったし、大人たちには作中一切の弁明の機会が与えられていなかった。私は同じ大人としての罪悪感に震えた。

新作「万引き家族」はというと、物語の設定からして、実話をもとにした「誰も知らない」とは異なり作為的で寓話的だ。この作品は「北の国から」的であると同時に、全員悪人の「アウトレイジ」的でもある。家族全員が(拾われたり、自分の家を出てその家に逃げ込んだ子どもたちですら)、ある役柄を(法的に正当な手続きなく)勝手に自分のものにする=盗む形でそこに存在している。

幼い「妹」は全体として、罪のない完璧な被害者に見えるように描かれているが、この偽物の「家族」の崩壊のきっかけをつくるのは彼女だ。安藤サクラ演じる「母親」は、この小さな「娘」を手放すことができずに職を失う。「兄」は小さな妹を泥棒にさせまいとして、自分が代わりに店員に捕まる。この幼い妹も、無辜の存在ではない。

少年にしても同様に、無辜の存在ではない。一緒にご飯を食べ雪遊びをし、同じ布団で眠った翌日、彼は「父親」に、僕、わざと捕まったんだ、と淡々と伝えてバスに乗り込む。

ここで少年は、子どもが大人になる過程での精神的親殺しの作業を完遂していて、その関係性においては、前を向いてバスの座席に一人で座る少年よりも、バスの後を走って追う「父親」のほうが優しくか弱い存在として描かれる。

この男の子を簡単に泣かせない演出を、私はいいなと思った。「父親」を「棄てる」ことが少年の意思だと示す表現だから。彼は二度、父親を棄てているのだ。わざと捕まった時と、それを告白する時と。少年が擬似家族の父親に、父ちゃん、と直接呼びかけることは最後までない。その言葉は「おじさん」には届かない形で、少年の唇を動かすだけだ。

松岡茉優が演じた風俗嬢JKの「姉」のポジションは、ほかの二人の子どもたちに比べて特異なものだ。

彼女は子どもと大人の境目にいる存在で、明示的に愛に飢えている。「おばあちゃん」とはギリギリ赤の他人ではない縁故を持っている。愛を求めて自分から動き回っているけど、祖母にせよ、無口な客にせよ、彼女の渇きを決定的に満たす存在ではなく、一緒に過ごすには時間的な制限がある。寿命だとか、お金とかによる時間制限。

彼女は偽の家族が消え去ったあとに、自分の桃源郷だったおばあちゃんの家に戻ってくる。そこにはもう何も残ってはいないのだが。彼女が次にどこを目指すのかは描かれていない。

子どもたちを保護した警察官や児童福祉司たちは、冷たい正義を振りかざしている好ましくない存在、という印象を与えるように描かれている。子どもの盗みを見逃してくれている雑貨屋のおじさんが、たった一言で少年の心を揺さぶるのとは異なり、彼らの言葉は別の国の言葉のように、偽の父親や母親の言葉とは噛み合わない。

もちろん彼らの言葉の全ては正論であり、法律の中で正しい行為を行う有能で善良な人たちなんだけど、映画では、観客の好意が彼らに向かわないような描かれ方をしている。関係ないけどこのちょい役での池脇千鶴はとてもよかった。彼女ももう、ちょっと嫌な中年女性を演じるような年齢になったのだなぁ。

話がまたも脱線したけど、だからこそ私は、獄中の「母親」が少年の解放と偽家族解散の決定打をうつシーンの演出に、なんかモヤモヤしてしまった。少年の出自がわかりそうな情報を伝えるこのシーンでの安藤サクラの強さ、美しさは圧倒的だ。

だけど、これだと「偽の父親と母親は、心優しい子ども思いのいい人でした、まともな世界の大人たちよりもずっと」っていう筋書きがあるみたいに見えてしまう。このことに私は不満を感じた。樹木希林が優しくも得体の知れない何かを抱えた人物として退場したことの意味が、安藤サクラの言動の「まっとうさ」で覆されてしまったように思えて残念だったのだ。

犯罪者だけど心優しい偽の家族のほうが、血だけ繋がった家族より子どもたちのためにはいい家族だったんじゃない?この「偽家庭」から子どもたちを引き離し「血の繋がった家族」に割り当てていくことは、正解だったの?(いやそうではないでしょう)、という反語的問いかけが、本当にこの映画の目指す着地点なんだろうか。だとしたらそれは予定調和だし解として単純すぎる気がする。

たぶんだけど、これは監督だけでなく、リリー・フランキーと安藤サクラの本質的な善良さによる限界なんじゃないか…という気がする。例えば、取り調べのシーンの受け答えはアドリブで撮影されたものだそうだ。是枝監督は、役者による登場人物の設計を、かなり役柄に反映させる監督でもある。

その点、樹木希林、この人はやっぱりおそるべき女優だなと思った。この人の演技のおかげで、おばあちゃん、ほんとは寂しかったんだね…という美しく哀れなストーリーが結実しない。

死んだ夫の再婚相手の子ども家族へのねっとりとした付きまとい方。偽家族たちに対しても、自分を利用させているようでもあり、徹底的に利用しているようでもある。善意と悪意の一筋縄ではいかない絡み合いを最後まで匂わせたまま、おばあちゃんは生の世界から退場した。

私は個人的に、こういう一口で説明できないし本人以外の誰にも本当のところはわからないような何か、みたいなものに惹かれる。だから偽両親の「本質的な善良さ」を強調する演出は、人間の複雑さや頼りなさを覆ってしまう、残念なものに思われたのだ。

人間ってもっと複雑で、得体の知れない、常にゆらいでるものなんじゃないのだろうか。だって実際には「父親」「母親」は、ばあちゃんを、次いで子どもたちを「拾い」、そして「棄てて」いる。警察に捕まった子どもを置き去りにして逃げようとしたのだから。お父ちゃんから、おじさんに戻ろうとするのだから。けれど彼は自分の言葉に裏切られてもいる。彼はバスを追いかけずにはいられないのだから。

このへんが、この作品における「言葉」の多さの理由かも知れないなぁ、と後から思った。言葉は人の心を裏切る。逆もまた然り。

いずれにせよ、これは「貧しくモラルは欠けているが根は善良な人たちが寄り添って支えあいながら暮らす優しい世界」という小さなユートピアの物語、というだけではないはずなのだ。拾うことだけでなく、棄てることを巡る現実の物語でもあると思うのだ。

どんな人でも善良さも邪悪さも兼ね備えていて、その人を信じる信じないも時には賭けでしかない。リリー・フランキー演じる「父親」が語る世の中の仕組み、いんちきな手品、盗みをやる時の胡散臭いおまじない、どれも不誠実な嘘のバリエーションだ。少年はそれを時には信じ、時には嘘と見抜いている。その上で、何かに賭けている。

偽親に「拾われ」、やがて自分の意志で偽親を「棄てた」少年が背負っていくもの、これからの人生がどういうものになっていくのかは、誰にもわからない。誰が「拾って」誰が「棄てた」のか、何が正義で何が悪なのか。それはこの、たった6人の小さな共同体の中においてですら、曖昧で流動的なものなのだ。全員が強く、そして弱い。誰もが優しく、恩知らずで残酷だ。それがこの映画の底を流れる世界観の本質なのではないかなぁ、と思うのです。

余談だけど、自分は拾ったのだ、棄てた人はほかにいるでしょう、という取り調べ室での安藤サクラの台詞は「北の国から」の初期のシリーズで、ゴミ捨て場から拾ってきた自転車を磨いて修理し使えるようにした五郎が、警察にそれを取り上げられそうになった時の抗議を思い出させた。だって一ヶ月も放ってあったんだ、捨ててあるものを拾って何が悪いの、と。「邪悪な北の国から」っていう友だちの評は、やっぱり当たってる気がする。

なんだか読み返すと、やたらと不満を書き連ねたようになってしまったけど、見るべき作品かどうかといえば、見て決して損のない作品だと思う。トータルでの完成度は間違いなく高い。

ただ、世間の評価の軸が、あまりにも社会制度的な方面、登場人物たちの属性から導き出される現実の社会問題とのリンケージに偏りすぎていて、作品そのものや、実際の登場人物一人一人の関係における緊張感やゆらぎはスルーされがちな気がするのが、ちょっと残念ではある。これからご覧になる方には、作品そのものを、登場人物たちの属性ではなく人を、じっくりと見て欲しいなぁ、と思うのです。

#映画 #是枝裕和 #万引き家族 #樹木希林 #リリーフランキー #安藤サクラ #松岡茉優 #201806 #コンテンツ会議



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?