鹿園 京子の記憶録

※本文はクトゥルフ神話TRPGシナリオ『鬼の棲む』のネタバレを含むシナリオプレイを元にした短編小説です、一読する際はご注意ください。



「では本日も私は外出してきます、留守にするとお父様に言伝をよろしくお願いしますね。」

私の身の回り世話をしてくれている執事の佐伯さんにそう声をかけながら、玄関にある姿見で家を出る前に軽く全身を確認する。着物も髪も問題は無さそうだ。


「送迎は如何しますか?」

「大丈夫です、この間素敵な場所を見かけて少し歩くだけですしそう遅くならないと思うので問題ありません。」

「左様ですか。ではお気をつけていってらっしゃいませ、京子お嬢様。」  

「ありがとうございます、いってきます。」

姿見のそばに置いておいた自分のトランクケースと日傘を手に取り、家を後にした。


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家の近くの大通りを道なりに暫く歩き、目印の装飾屋の隣の細い路地へと入っていく。

車が通り地ならしされている大通りと違い、人しか通らないこの道は幾分かでこぼこしていてヒールのあるブーツだと少し歩きづらさを感じた。

細い路地を抜けると、住宅街の様な通りに出る。
その道をまた少し歩いた先に京子の目当てのその建物は存在していた。

『◾︎◾︎医◾︎』

白かったはずの看板は雨風のせいか薄黒く汚れており、それに伴って文字も掠れてきちんと読めない。
その割にその建物の外観はしっかりとしており、看板だけが若干浮いた印象を与える。

赤いレンガ造りの階段を上り、黒いドアに付いている鈍色の取っ手を掴みドアを開ける。

赤い絨毯が敷かれた廊下の突き当たり。
ドアが開いたままになっている部屋にはいると、この家の家主がソファの上でだらしなく寝ていた。


「久世先生、起きてください。
 もう十時を過ぎますよ、こんなに資料も散らかしたままにして……その身なり、徹夜していたのですか?」


ソファの傍に膝をつき、家主である久世 彰(クゼ アキラ)の身体を揺さぶり声をかける。

「ん〜…、あぁ…………京子か……。」


声をかけられた久世は直ぐに起きた様で、寝ぼけ眼のまま身体を起こすとぐぐーっと伸びをした。


「おはようございます、先生。
 夜の間に急患でもいらしたのですか?」


起きたばかりの久世を一瞥すると昨日訪れた時から服装が変わっておらず、少しばかり無精髭が伸びている。
彼は元々怠惰な性格ではあるが、表情に若干疲れの色が残っているのを見るに恐らく徹夜で仕事をこなしていたのだと思う。


「ン〜…、まァそんな所だな。
 丁度いい、色々調べたくて資料とか引っ張り出したせいでご覧の有様でな。片付け頼んだ。」

「私ひとりで、ですか?」

「あァ、普段京子に任せてるから何処に何をしまってるか知らねェし、俺が片付けるより早いだろ。」

「そうやって私に押し付けて……、仕分けはしなくていいので資料を集めるくらいは先生もしてくださいね?」


既に煙草を口にくわえて楽をするつもりの久世に冷ややかな視線を送りつつそう告げると、久世は「へいへい」と面倒くさそうな返事をしながらも近くにあった資料を集め始めた。

先生の元で勉強させてもらう為にここに通っているはずなのに、少し身の回りの面倒を見すぎてしまったかしら……


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暫く作業を進めていると玄関のドアが閉まるバタンという音が耳に入る、廊下を歩く足音から誰かが訪ねてきた様だった。


「これまた偉く散らかってんな、お邪魔するぜ。」

「なんだ、お前か。」

「あら、ヤクザさん。お久しぶりです、怪我……ではなさそうですし先生に御用ですか?」

「あぁ久世に話があってな、この間の話どうだ?」

「問題はねェが、面倒なンだよな………………ァ〜、そこの京子連れてっていいぞ。まだ見習いだが知識はあるし役に立つ、丁度いい機会だろ。」

「え、私ですか……? 一体なんの話を……」


部屋に入ってきた見覚えのある男は久世の知り合いのヤクザという男で、京子も何度かこの場所で顔を合わせたことがある。

いつもなにか久世に頼み事をしており面倒くさがりつつも渋々引き受けているのを見た事がある。今回も恐らくなにか頼み事をされているのだろうけどなぜ私名前が突然……。


「詳しい事はあんま言えねえんだが、遺体修復の出来る人間を探していてな。」

「確かに先生の元で遺体修復のお勉強もさせてもらっていますが、そんな実践経験はそんなにないのに……」

「大丈夫だろ。俺が言ってンだ、連れてってかまわねェよ。」


当の本人である京子の意志を聞かぬまま、あれよあれよと話は進んでいき。
ヤクザに渡された秘密保持の契約書に署名をすると不意に場所は教えられないから、と目隠しをされ車にのせられ暫く揺られる事となった。


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エンジンが止まる音と共に車のドアが開き目隠しを外されると、そこは京子が普段過ごしている町並みとは一変した雪が積もる場所だった。

長い時間が経過していた様で傾いた陽が雪を燃やす様に照らしている。
山中の様だが不思議と獣の鳴き声や気配はなく異様とも言える静寂が広がっていた。

どうしましょう、本日中に帰れそうにないしきっとお父様が心配してしまうわ……。
佐伯さんが怒られてしまうかも、仕事を終えて早く家に帰らないときっと大事になってしまうわ。


「車で送ってやれるのはここまででな、すまねえがこっから先は嬢ちゃんひとりで歩いていってくれ。ここを三○分くらい歩いていったら家があるからそこだ。」
「わかりました、そこに向かえば良いのですね。
それにしてもこのような場所でしたら多少は教えていただきたかったものです……普段の格好ですし風邪をひいてしまいます。」


幾ら着物を着ていると言えど、雪道を三○分もひとりで歩いていたら風邪をひきかねないだろう。
吐く息は白い煙となって目に見え、ヤクザの鼻先や耳も寒さのせいか赤くなっているのが目に入る。

「悪かったな、何分場所を教えられないもんでな。
お詫びと言っちゃなんだがこれ羽織ってけ、少しは暖かいだろう。」

そう言うとヤクザは自分の身につけていた外套を京子の肩に被せると「じゃあ頼んだ、帰りにまた迎えにくるからよ。」と、告げてまた車に乗って去ってしまった。

先生に突然提案されたかと思えばこんな場所に連れてこられるなんて……、知っていたら意地でも先生に行かせていたのに。そうでなくとも、せめてひとりでは来なかったわ……。


遠のいていく車のエンジン音を背に、ヤクザの言う道なりに歩いていく。

しばらく真っ直ぐ歩いていくと雪の中にポツンと佇む一軒の建物を見つける、恐らくあそこが目的の建物だろう。
山中にあると言うのに妙に手入れがされているのか綺麗な印象で少しホッと安心を覚えた。

コンコンとドアをノックしながら声をかける。


「ヤクザさんの遣いで此方に参りました。
 遺体修復の御依頼との事を伺っております、どなたかいらっしゃいますか?」


暫く返事を待ってみるものの反応はなく、誰もいないのかと思い試しにドアを開けてみようとすれば鍵がかかっていなかったのかドアが開く。


「勝手に失礼します、どなたかいらっしゃいますか?」


一歩、家の中へ足を踏み入れもう一度声をかける。
その瞬間ツンと鼻をさす獣の様な臭い、臭いがしたかと思えば酷く聞き取りづらい獣の唸り声の様な声が京子の背後。すぐ側から聞こえる。


「……よく来てくれた、振り返らずに話を聞いてくれ。
先に告げておこう、俺は人間ではない。人喰いの化け物だ。一昔前は鬼と呼ばれた事もあった----」


そうして京子の背後に居るであろう『鬼』は語り始めた。自身が元は人間として育てられていたという自身の生い立ちのこと。
喰った人間の経験や知識、時には記憶を取り込むことが出来るという能力の話のこと。
自身はヤクザの関わっている"組織"とやらにここでの暮らしを融通してもらう代わりにその能力を使わせているということ。
自身の頼みを聞いてくれるのならば京子の事を取って喰いはしないということ。
そして、酷く損傷がある遺体の修復を頼みたいということ。
その遺体を石焼釜で灰になるまで焼いてやりたいとのこと。

その話を聞いている最中、正直唐突に『鬼』やら『能力』やら『遺体を喰う』やら浮世離れした話の内容に京子はついていけなかった。
怪異の話を綴った本を読んだ事はあるものの、実際に存在するとは思っていなかった。

けれど、ツンと鼻をさす嗅ぎなれない獣の臭い。焼け潰れてしまったのかと思うほど掠れ唸るように低い獣のような声。
なにより背後から感じる異様な気配に本能が『ソレ』が実在すると伝えている。


未だに混乱する頭の中、その存在が話し終えると目を伏せたまま後ろを振り向いた。


「私は、今回御依頼を受けて此方へ参りました。
一度引き受けたからには、必ず遺体を元に戻してみせます。」



そっと京子が伏せていた目を開けると、視線の先には人間に似た形をした化け物という言葉が当てはまるソレが佇んでいた。
身体のほとんどがダボついた布に覆われておりはっきりと露出しているのは首から上の部分だけだった。
しかしそれだけでも感じ取れる人とは違う箇所。
骨格から皮膚表面、布の隙間からほんの少しだけ覗く鋭利で大きな爪。

人間と獣境目のような見た目に一瞬圧倒されるも、『鬼』自身が言ってきた様に京子を襲う気は無いらしく「よろしく頼む……」とだけ発するとのそのそと家の中へと消えていった。


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『鬼』に教えてもらった客間へと向かい、持ってきたトランクケースやヤクザに借りた外套をおく。
どうやらこの部屋に『鬼』が立ち入ることはあまり無いらしく独特の獣臭がこの部屋にはしない。

流石にあの臭いがする部屋で安眠は出来なさそうですし、少しだけ安心ですね……。


一息つき部屋を見渡すと部屋の隅の方に丁寧に畳まれた衣類が重ねられているのが目に入る。


あれは女性物の着物……、他の方も私の様に依頼を受けて来ているのかしら……?
でもこの家にはあの『鬼』以外の人影はなかったし……前の方の忘れ物かしら………

幾つか手に取り広げてみると古くなり傷んでいる様な様子はなく、つい最近まで着られていたような癖もついていた。

後で機会があったらあの方に聞いてみましょう。


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空腹感を覚え自由にしていいと言われていた台所へと向かうと、獣臭さとは違う生臭さがツンと鼻をさす。
どうやら積み重ねられた食器や、そのままにされたゴミがこの悪臭を放っているらしい。


前に一週間ほど先生の所へお邪魔出来なかった時もこれくらい汚くなっていたような気がします……。
先生も怠惰な性格をしていますが彼もそうなのでしょうか……


これでは食べれるものも食べれないと思い、悪臭を我慢しながら慣れた手つきで食器やゴミを片付けていく。
本来ならば京子はこの様な片付けの作業は苦手なのだが、あまりにも久世が片付けが出来ないしようとしない人間なので必然的に出来るようになっていった。

暫くの間黙々と作業をしているとようやく人が使える程度には片付いてきたようだ。

片付けている最中に気がついたのはどうやら『鬼』はあまり食事に興味がない様だった。
期限の切れた調味料や缶詰め、ギリギリ食べられるかと言ったパンなどが当たり前のように棚に置かれていた。

ただ、冷蔵庫の中だけは幾つか京子も食べられるものが残されていた。
中でも目を惹くのは京子の好きな桃のタルト。
少々形が歪なことからどうやら手作りの様だった。


こちら頂いても良いのかしら……でもあの方も好きにして良いと仰ってたし、一口くらいなら大丈夫ですよね。


「ん……おいしい……。」


サクッとしたタルト生地の食感に桃の甘い刺激が痛いくらいに頬をさす。

思わず笑みをこぼしつつタルトを食べていると、またあの獣臭が鼻に入る。
爪が床に当たるコツ、という音からどうやら『鬼』も食事を取りに来たらしい。食料棚を物色すると賞味期限など関係なしに様々な量を手に取っている様だ。


「あの…、もしよろしければご一緒にこちらのタルト食べませんか……?
 冷蔵庫にあったものを勝手にいただいてしまったのですが。」

「あぁ……、ではいただこう……。」


京子が口をつけていた部分を避け、タルトを切り分けると『鬼』もタルトに手をつけた。
ただ特に味わっていると言う様子もなくただただ腹を満たしている、という風に京子は感じた。

二人で歪な食事を済ませると京子自身は眠気を感じ、客間へと戻り眠りにつく事にした。


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翌日は朝早くから雪山に放置されたままだと言う遺体の回収へと向かう。
荷ぞりを引きながら雪の積もる山道を『鬼』に教えてもらった道なりに歩いていく。

幾分か歩いた頃に崖沿いに真っ赤な冬椿が咲いているのが目に入った。
山道を下り、崖下へと降りると少しばかり雪が血に汚れた場所を見つける。

冷えた手で雪を掻き分けると、若い女性の遺体をみつける。雪に埋もれていた為か遺体の腐敗は全くと言ってしていないようだった。
しかし、身体のあちこちを損なっており恐らく周囲にバラバラとなり埋まっているのだろう。

軽く遺体の様子を観察すると原因が高所からの落下による骨や脊椎等の破損によるものだと考えられた。
上を見上げると先程目に入った真っ赤な冬椿が下からでも確認でき、恐らくこの女性は冬椿を取ろうとして足を滑らせて……といった所かもしれない。


遺体の回収が終わり、引いてきた荷ぞりに積み終えるとまた引いて来た道を戻る。
崖の上まで戻ってくると、京子は落ちないように気をつけながら真っ赤な雪椿を一輪、手折り女性の遺体へと捧げた。


きっとこの花をつみたかったのですね、綺麗に咲いていますから。
貴女が安らかに眠れる事を祈ってこの花を捧げます。


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建物へと戻ると客間と庭続きの場所に用意されていた作業台へと遺体を運ぶ。

改めて女性の遺体を観察しているとどうやら衣類に紛れて手紙を持っていたようだった。
中身は何も書かれていない便箋といくつかの封筒、ただ1枚だけおそらくあの『鬼』とこの女性を描いた落書きが便箋の隅に残されている。


「これは……。」


もしかしたらこの女性とあの方は知り合い…?
だとしたら客間にあった衣類はこの女性の方のものなのですね…、きっと冷蔵庫にあった桃のタルトもあの方のためにこの女性が作ったもの。


「私も少し頂いてしまいましたが、あの方にも食べていただけましたよ。とても美味しかったです。」


バラバラになってしまった身体を縫い合わせるために女性の衣類を脱がすと、女性の身体に恐らく高所からの落下とは関係の無い古い傷が幾つも目に入ってくる。
特に背中に残っている無数の根性焼きと呼ばれる火傷跡。またそれ以外の箇所にも鬱血痕や古傷など数えればキリがない程に身体中に刻まれていた。


「まさかこんな……酷い…………。」


先生の元で勉強させてもらう上で様々な怪我や傷を見てきた、肉が抉れて骨が剥き出しになっているのを見た時は思わずえずいてしまった事もある。
そんな光景をみてきた京子でさえもとても痛々しく、直視しきれない程だった。

女性の身体にこんなことをするなんて、小説の中でさえも有り得ない酷いことだわ……。


なんとか身体を縫い合わせ、微かに残っていた血の汚れを拭き取る。
多少縫い目が歪ではあるもの服を着せてしまえば目立つことは無いだろう。


「一生に一度のお別れですもの、最後は素敵な姿を見せてあげましょうね。
私が貴女を綺麗にしますからね、お任せ下さい。」


遺体に対して防腐処理を行い、化粧を施す。
客間に残されていた衣類の中から、あの冬椿のような真っ赤な着物を選び着せる。
白い肌がと黒い髪が映えてとても綺麗だと感じた。

かなりの間集中して作業をしていたのか、ふと手を止めて窓に目をやると外は暗く静まり返っていた。遺体の修復もおめかしもほぼ済んでいる為、明日には彼女を弔うことが出来るだろう。



気になる事をあの方に確認しなくては……。



あの男の部屋へと向かいコンコンとノックをすると反応があったので部屋へとはいる。
扉を開くとやはり独特の獣臭さが鼻をさすが、少しずつ慣れてきてしまっている。


「ひとつお伺いしたい事があって。」

「なんだ……。」

「あの女性の方とは知り合いなのでしょうか?」


そう京子が問いかけると『鬼』は少しずつ教えてくれた。


「知り合いと言えば知り合いなのだろう、あってひと月程しか経ってないが。」

「人間と違って俺の種は個体を名前で識別することがないから、わからん。」

「あいつに、……喰ってくれ、と言われたんだ。」

「あいつは、鬼の棲む山と昔から言い伝えられてきたこの山にひとりでやってきた。人喰いの化け物と会うなり、自分を喰ってくれと言ってきたんだ。
 だが、その時はたまたま猪を食ったばかりてま、腹がくちくなっていたから喰わなかった。そうしたら、あいつはこの家に勝手に棲み着いた。
 それから、気がつけばひと月ほど経っていて……、気がつけば、死んでいた。理由はわからない。」


部屋に入った時は本を見つめていたはずの『鬼』の視線は話終える頃にはどこか別の、虚空を捉えていた。
不意に部屋の隅にあるゴミ箱に捨てられた人のものとは比べ物にならない鋭い爪が目に入る。


「この爪は一体……?」

「あぁ、それは俺のだ……自分で剥がしたんだ。」

「自分で、ですか?なぜそんな事を……」

いくら『鬼』と呼ばれる存在だったとしても、自分自身で爪を剥がすなんてとてもじゃないけど痛いはずなのにどうして……


「女が生きていた頃、半月ほど前に自分の周りをうろうろしていた際にうっかり爪を引っ掛けて怪我をさせてしまった事があってな……。
 怪我をした女はぎゃあぎゃあ五月蝿かったし、血の匂いのせいで気が立ってしまうのも面倒だから、もう引っ掛らないように爪を剥がしたんだ。」

「そんな事が……、唐突にそんな事を聞いてしまってすみません。
 遺体修復はもう既に終わっているので明日最後に顔を合わせてから弔ってあげましょう。」


京子は一方的にそう告げると自身の客間へと戻った。



「貴方はもしかしてあの方を好きになったのではないですか……?」


自身が化粧を施した女性に静かに見つめる。
彼女は何も語らない。眠っているのかと見間違うほどに穏やかで綺麗なのに、彼女が目を覚まして語ることも。笑うことも。動くことも。呼吸をすることもないのだ。

彼女の為に爪を剥がしたと言う彼も。
彼女が作りおいていた手料理も。
自分が行けば遺体を喰ってしまうからと依頼をしてきた彼も。
似顔絵のようなものを残していった彼女も。


恐らく二人は伝えずとも、自覚せずとも、お互いに好意を抱きあっていたのではないだろうか。


「全部私の空想なんですけれどね、でも何も教えてくれないから想像するしかないんです……。」


ぽつりと、誰もいない部屋で言葉をこぼす。
空気が澄んでいるからか、やけに月の光が寂しく窓ガラスから差し込んで遺体を青白く照らしていた。


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「お待たせしました、最後にお顔合わせますか?」

「あぁ。」


翌朝、男に聞くとのそのそと私の後を追うように客間へとついてきた。
遺体がある方へと案内すると、男はまじまじと遺体の顔を覗き込む。

そして、ぽつりぽつりと語り出す。


「……そうか、こんな顔をしていたのだな。」

「人間の顔など今までよく見た事なかったから、改めてこの顔を眺めるのは初めてだ。」

「---喰ってくれ、と言われたんだ。」

「だが、俺はこいつを喰いたくない。今まで、人間を喰うことに恐れを抱いたことはなかった。実の両親を喰い殺した時でさえ、そうだった。」

「このように本能を反することを思うなど、俺ももう寿命なのかもしれんな。俺は随分と、長く生きた。
 俺の種の考えでは、死体を喰うことは魂を自身に取り込み、永遠の命を与える行為とされている。だから、俺が死んだ際には、同胞に喰われたいと本項で望んでいる。
 お前たち人間にとっての死は終焉だ。生きた人間に、死んだ人間を知る術は無いのだから。
だが、俺は違う。死したからこそ、生きている時よりも深くその者を知る術を持っている。」

「……この身が、消化した知識や記憶は、俺の中に延々と残り続けている。俺自身の記憶はこの脳みそに刻まれているから、年数の経過によって劣化するのにも関わらずだ。
 俺自身の記憶はこんなにも曖昧なのに、食ったものの魂はそのまま俺の中に残り続けるのだ。俺はそのことが、とても恐ろしい。
 あいつを喰うことで、あいつが俺をどう思っていたのかを知るのが……ひどく恐ろしく感じてしまった。
 恐怖や、畏れかもしれない。人間だった俺が忘れてしまった、それ以外の感情かも知れない。だが、知ればきっと、俺は永劫それを忘れることが出来ない。」

「……だから、お前を呼んだんだ。この死体を弔い、骨の髄まで焼いて、灰にすれば、そこで俺はようやく安心を得ることができるだろう。」

「俺は悩んでいる。喰いたくないと心から思っている、この死体を喰うべきか、否か---」

男の話をじっと黙って聞いていた京子は、代わりに答えを出すべく口を開く。


「私は喰うべきではないと思います……。
 死者が何も語らないからこそ、私達生者は死者が何を思い考えていたのかを考え、死者を忘れずに生きていけるのです。
 本能に反する事をしたいと思うのの何が悪いのですか…?
まだ貴方にも理性が残ってるという事、立派な人間らしさじゃないですか。ならばせめて、人間らしい方法で彼女を弔ってあげましょう。」



少しばかり虚ろな瞳をしていた男の顔を覗き込みそう答える。
確かに彼の見た目は化け物だし、子供がみたら泣いて逃げるだろう。京子自身も初めて見た時は驚き圧倒された。
それでも彼の内側にはまだ人間らしさが残っている、京子はそれを尊重し、まだ彼に人間らしくあってほしいと思った。


京子の言葉を聞いた男は彼女を抱え上げて石焼き窯へと運んでいく。
少しばかり丁寧な動作で窯の中に彼女の遺体を横たえた。
大量の薪を燃やし、赤々と燃える火を起こす。


「なぁ、人間はこう云う時に、なんと言って別れを告げるんだ?
 死したものに別れを告げるのは初めての経験だ。どうか、教えてくれないか。」


燃え盛る炎を見つけながら男がそう呟いた。

別れを告げる時……、私はあの時。彼の時には、なんて声をかけた……?
あの時は確か……


「私はありがとう、と言うようにしています……。
 私と出会って素敵な経験をさせてもらったんです、きちんと感謝の意を伝えなくてはいけないでしょう?」

「そうか……。ありがとう……。」


炎から目を離さぬまま、ぽつりと男が言葉をこぼす。
目に痛いほど青く晴れ渡った冬の空に、細くたなびく煙が上がってゆく。
人間が焼ける、嫌な匂いが鼻を突く。だが、それをすぐに冷えた風にさらわれていった。

男は、窯に灯った炎が冷たくなるまで、じっとその様子を見ていた。
燃やし尽くされた血肉と骨の塊が、雪のような白い灰になるまで。
ただ、静かにそれを見つめていた。


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あれから直ぐに、家にヤクザさんが迎えに訪ねてきてそのまま家を後にした。
帰りもまた目隠しをされ、あの場所がどこか分からない以上あの男と会うことも再びないだろう。


三日ぶり程に帰宅すると、父が喜び半分怒り半分で駆け寄ってきた。
どうやら出掛けた日の晩、私がまだ戻って来ないことを告げると大騒ぎになったらしく警察沙汰になっていたらしい。


罰として京子には一週間程の外出禁止とお菓子抜きが言い渡され、一週間ぶりに訪れた久世の部屋が酷く散らかっていたのはまた別の話である。

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