2009年の年末

この年は4日間の幕張のチケットを確保していました。
当たり前に、年末にフジやくるりに会えると思っていました。

それが、その直前に全く予想だにしなかったことが起きてしまいました。
本当だと言われても信じられない、信じるのがつらすぎることで頭はひたすら混乱していました。

26日の深夜に帰宅してから28日(フェスの初日)まで、どのように過ごしていたのかはほとんど記憶に残っていません。当時のSNSには、26日の昼に「何故か涙が出ない」という書き込みをしていますが、本当に頭も心も空白の状態だったのだと思います。

そして、どうしてなのか知りたくて、でも知りたくなくて、でも現実を受け入れるためには必要があると感じていたのか、とにかく情報を求めていました。この時ばかりは普段は敬遠している巨大掲示板も覗いたように思います。同じような方もたくさんいらしたのでしょう。28日に富士吉田市でお葬式が行われるらしいという情報が出ていました。もしかしたら、SNSのコミュニティーのほうにだったかもしれません。正直、ものすごく揺れました。このおかしな状況が、本当に起きていることなのか、実際確かめてみなければ受け止められないという思いもありました。でも。そこはやっぱり越えてはいけない一線だと思い、何とか踏みとどまりました。

そして、毎日ほとんど眠れないまま、ふらふらになりながらも当初の予定通りにフェスに通うことにしました。

フェスの会場へ行くことにしたのには、大きな理由がありました。
この年、フジは30日に出演予定だったのですが、その時に書籍コーナーへ置くため本人がサインを入れて準備していた「志村日記」(書籍版)を、初日から限定数ずつ毎日出すことにしたという情報が主催者から出ていたのです。これは何としても手に入れなければならないと思っていました。まだ全然咀嚼できてはいないけれども、これで最後になるであろう、志村さんが直接書き残したことが確実に分かっているサインです。
初日は開場1時間前位に現地入りしましたが、とうに整理券配布は終了していました。そこで2日目は、もう開場2時間前位に現地入りしました。あろうことにか目の前で終了してしまいました。そして、3日目。これを逃したらもうチャンスは無いかもしれない、もしだめだったらどうしようとハラハラしながら、開場3時間前位に現地入りしました。待っている時間がとても長く感じられました。ずっとハラハラしていました。一人、一人、と整理券が手渡されていきます。それが近づいてくるにつれて、これできっと大丈夫という思いと、でも昨日のようなことになったらどうしようという気持ちで揺れ、ぐらぐらしました。
幸い、この日私はやっと整理券を受け取ることができました。それを持ち、書籍コーナーまで行き、サイン本と引き換えた時、涙が溢れてきました。「状況を知らない販売の方からしたら自分は不審者だろう」などと思いながらも、涙は止まらず、震える手で大事に本を鞄にしまいました。


この年のフェスは、皆、志村さんのことを想っていました。たまに、この人本当に志村さんのことを知っているんだろうか、触れておかなきゃいけない雰囲気があるからとりあえず言ってるんじゃないかと思えるような場面で不快に思ったこともあったような気がしますが、志村さんと仲が良かったり関係が強かったりした多くのアーティストが、それぞれのやり方で想いを届けてくれるのを見て聴いて、だんだん現実感が出てきて、つらくなりました。


28日。SNSに「一人でいられてよかった おもいっきり泣けたから」と書いていました。Puffyのdokidoki、民生さんの茜色、トライセラの陽炎。あの民生さんが人前で声をつまらせて涙していた。くるりについても、一言も口には出さなかったけれども岸田氏が志村さんに向けて歌っているようだった、魂のゆくえ、太陽のブルースがこんなに哀しく沁みたことはなかったと書いています。
29日。「音楽が遠く、自分より一枚も二枚も外で音が鳴っているようだ、感覚を取り戻したい」と書いていました。氣志團の茜色に胸が熱くなりました。
30日。この日はフジが出演するはずの日でした。出演はキャンセルになりましたが、代打は置かず、過去のライブ映像を流すと告知されていました。私は気持ちの整理のつかないまま、ステージ左方のフロントエリアに立っていました。ステージにはメンバーの楽器がいつものようにセットされ、志村さんのギターには、帽子が被せられていました。渋谷さんの挨拶と黙祷の後、過去のロキノンフェスの映像でこの日歌うはずだった曲が流されました。同時にステージにはライトが当たっていました。私が初めてフジを聴いた2006年の夏フェスの映像もありました。まだ垢抜けていない志村さん。その後どんどん垢抜けていって、まだまだこれからだったのに・・・怒り、やるせなさ、悲しみ、懐かしさ、色々な感情が交錯していました。SNSには全然整理はつかないながらも「散々泣いて怒って今はフジの歌を聴けるようになった」と書いていました。その後、事変のステージをぼんやり眺めていたことやYOKINGさんのことばに救われたことの記憶があります。
31日については記録も記憶もあまり残っていません。フェスのタイムテーブルを見るとCoccoが出演していた日で、確かにそこに足は運んだという記憶はあるのですが、詳細に思い出せません。それ位憔悴しきっていたのだと思います。

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