くるりとの距離感

0506年の年越し以降、私のくるり熱は相当高いものとなりました。

普段はかなりの低体温なもので、自分はそういうものなのだと思っていましたが、こんなことがあるんだという位、まあ、いわゆる「お熱」の状態でした。くるりと、そして岸田氏とにです。当時は繁君と呼んでいました。

NIKKIも大好きなアルバムでしたし、ワルツを踊れもお気に入りでした。ピアニストをしている友人用にもアルバムを買って「お勧め」と言って渡したこともありました。ワルツの影響で、中欧旅行にも1人で出かけました。特に目的もなくHEILIGENSTADTにも行きましたし、勿論CAFE´ HAWELKAにも寄りました。コーヒーを飲むとお腹が痛くなると分かっていたのに、曲にあるようにハヴェルカでコーヒーを「ぎゅ~っと飲み干す」体験をしたくて、実行し、結果やっぱりお腹が痛くなる…ということを、2回行いました。2回目は夜中にです。「真夜中3時気まぐれな僕は街を出た」も実行したかったのですが、さすがにためらわれたので、終電ぎりぎりの時間に決行しました。馬鹿ですね。笑


当時は気付いていなかったのですが、徐々に雲行きがあやしくなってきていたのは2009年だったと今では思います。この頃は普通に魂のゆくえの発売前先行視聴イベント(@リキッド)にも行っていますし、音博にも行っています。

理由の一つは、アルバムやシングル曲にあまり入り込めなかったことだと思います。その頃、私はライブバンドとしての圧倒的な存在感で自分を飲み込んだ0506年の年越しのような感覚に原風景のようなものを見て、ギターの効いた曲を好んで聴くようになっていていたので、ことばはさんかく~、さよならリグレット、三日月の辺りは、勿論CDは買っているし「良い曲だね」とは思いながらもあまり聴かない路線でした。でもその気持ちを必死に抑えよう、見ないようにしていたとも思います。あとは、以下の二つ目との関連をどこか本能的に感じていて、入れなかったというのもあるかもしれません。

二つ目は、おそらく、当時のくるりを見ていた多くの方が多かれ少なかれ感じていたことだと思うのですが、鍵盤関連のあれこれで色々心が揺れていたというのもあると思います。「揺るがない幸せがただ欲しいのです」だったんだよね?それなのに、何故?という。

勿論私はあくまで一ファンでしかないし、岸田氏と個人的に繋がれることはまずない。そんなこと分かっているし、そういう期待はしていない。自分がそのことで怒りを覚えたり失望したりするのもお門違いだとも思う。

でも、耐えられなかった。それまでにも色々な噂は耳にしたりもしていた。才能のあるフロントマンだし、まあそういうことがあるっていうのは(好ましいとは思わないけど)ある程度仕方がないと思っていた。

でも。

何でこんな、自分たちに見せつけるような形で(お互い)いるんだろう、と。

しかし、このこともなるべく見ないよう、見ないようにしていました。

「私はくるりが好き」

そう思って、それまでと変わらないようにファンをしようとしていたように、今では思います。秋以降、その傾向が強くなっていたと思います。


2009年に行った音博は、何故か不安になるものでした。

私としては、2008年は自分では動かせない理由で参加ができなかったため、待ちに待った音博でしたし、くるりにとっても、ホームで自分たちが作り上げた特別な場であるはずです。それが、トリのくるりを聴いている時に、何か不穏な雰囲気を感じざるを得なかったのです。具体的には、佐藤さんがつらそうでした。どこかぎこちなく、ぎくしゃくした空気を感じました。(勿論、これはあくまで私の主観によるものです。)

当時はその理由が何故なのか全く分からなくて戸惑うばかりでした。もしかして、音博の運営関係で意見の対立があったりしたんだろうか等と考え、悶々としました。「もし何か無理をしているところがあるなら、少し休んでもいいから、長く音を聴かせてほしい」というようなことをSNSに書いています。


その後、鍵盤のことでもやもやしたりしながらも、とろみツアーにもみやこ音楽祭にも通っています。でも、通いながらももやもやは募るばかりでした。そんな中、ユーミンとのコラボの「シャツを洗えば」は久しぶりに幸せに聴けた曲でした。

また、その一方、日に日にフジ&志村さん熱が高まっていく中、年末の志村さんの急逝がありました。その後しばらくはフジの曲を聴けなくなりましたが、ふらふらになりながらもフェスでフジのステージに行った後は、逆にフジの曲しか聴けなくなりました。


そうして、気付けばくるりとの距離がずいぶんできていました。純情息子もやめていましたし、ペンタトニカもやめました。2010~2011年はじめに発売された音源は、かろうじて「言葉にならない、笑顔を見せてくれよ」を買った位で、その他はスルーしてしまいました。

この頃は、むしろフジからくるりを聴くという感じになっていました。

フジフジ富士Qに出演してくれた。銀河を歌ってくれた。ありがとう。

総君をサポートに呼んでくれた。ありがとう。

おそらく半分以上は総君のギターを聴きたくて、音博にも武道館ライブにも行きました。武道館に行くと、またもやもやしました。でも、この頃にはそれはもういいや、という感じになっていました。呼称が「繁君」から「岸田氏」になったのもおそらくこの頃だったと思います。

その「もやもや」を意識せざるを得ない状況で聴く「犬とベイビー」や「ハム食べたい」などは、本当に戦慄もので、どうしても耐えられなくなりました。もう駄目だ…となり、ある程度の怒りを原動力に、「私はくるりから、岸田氏から卒業する・した」と思うようになりました。

そして、自分のアイデンティティーも、すっかり「フジの人」になっていました。


その後、311が起き、くるりは京都へ帰ってしまいました。そしてメンバーチェンジもありました。

この頃、自分がどんな風に曲を聴いてライブに通っていたのかはあまり覚えていません。それでも、何だかんだ言いつつも、どこか離れられないところはあったのだと思います。「スペチャ!るギグ2」などのイベントにも行っていますし、音博も、フジが出るからというのもあり行っていますし、おそらく「湯気湯気帝国」にも1日位は参加しています。

でも、ライブの聴き方は、完全に昔とは変わっていました。どこか外から聞いているような感覚で、私は大きなものを失ってしまったんだな、と、寂しくなりました。それでいて、昔の曲を聴けたりすると、やっぱり私はこの人たちが好きだったんだということを再認識したりもしました。

そして、自分もくるりから離れたけど、くるりも東京を捨てたんだな、と、どこのライブでだったのかは思い出せないのですが、この頃のライブ終わりに考えていた記憶があります。

私の中でくるりは複雑な存在になりました。

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