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オープン・グラインドハウス観劇後に思い出したこと

バストリオのオープン・グラインドハウスⅠを鑑賞して、高校の頃を思い出した。

当時私は「合理的」とか「合理性」ということばがものすごく嫌いだった。それによって切り捨てられるもの、つぶされるもの、合理を盾にした不合理・不条理・・・そういう大人、社会、というか世間が嫌で仕方なかった。

感性は今よりもずっと逆立って高ぶっていたように思う。お世話になっていた先生に「読んでみたら?」と紹介された本の著者の書きぶりが、(今考えればそれは評論だったしどうってことないはずなんだけれども、)強烈すぎるように感じて、自分の物の書き方がわからなくなってしまう、崩れてしまうと恐れ、拒絶したりもした。

当時、文学と映画と音楽に救いを求めていた私は、無理やり言うことを聞かされて大学に進学することにも全く価値を見出せず、抵抗していた。

けれどもその後、諸々を経て私は自分で大学へ行くことにした。

そのとき選択肢にあったのは当然文学部なんだけれども、先の先生は「あなたは文学部には行かないほうがいい」と言った。だからというわけではないのだけれども、私は合格した文学部と最後まで悩みつつ、別の方向性の大学生活を送ることになった。

それは結果的に良い選択になったと思う。

大学生活は楽しかったし、充実していた。環境にも仲間にも恵まれたし一人になれたこと、何より忙しかったことで普段はだいぶ余計なことを考えずに済むようになった。そうして、入学前のような棘はすこしずつ薄れ、影を潜めるようになった。

もし、文学を対象にしてしまっていたら、否応なしに影響されるしもっていかれていたはず。気付けば、文学作品を手にとることがほとんどない生活を送るようになっていた。(かわりに音に傾倒するようになっていったけれど。)

そしてその頃からもさらに年月が経ち、気付けば年齢的にもとっくに「大人」の側に私はいる。

そうしてなんとか「大人」として生活していくうちに、意識しないようにして埋めてきていたことが、あまりにたくさんあったんだなあと、パフォーマンスを見て思い出した。

平穏に暮らしていくためには必要なことがもしれないけれど、それはいいことなのか。それでいいとしていいことなのか。

面倒なことだけれども、そういうことを考える余裕が人には必要だ。そのきっかけを与えてくれるのがアートだ。

私はアートを実践する・アートに生きる側ではないけれど、アートと共に生きて、色々なものを受け取ったり、提供できるものがあればしたりしていきたい、そんな位置に落ち着いたんだな、と思った。

好きだからって常に一緒にいなきゃいけないわけじゃないし、全部を肯定しなきゃいけないわけじゃない。近づいたり離れたり、適当に何かを感じたり感じなかったり、そういうマージナルな距離感から貢献できることだってあるはず。

ずいぶんいい加減かもしれないけど、そんなことを考えた。

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