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評価を気にする私がもらった0点テストという名の愛

去年の8月のこと。
失敗するのが怖くて恥をかくのも嫌い。
そんな自分をわかっていたのに
私はアシュタールさんに質問を投げた。


回答の初っ端は
「何を聞きたいのかわからない」。


それを目にした瞬間
頭が真っ白になって
恥ずかしさで死にそうになって
その日は続きを読めなかった。

翌日には最後まで読むことはできたものの
ショックが続いていて内容は頭に入らなくて
その後更新される記事も
恥ずかしい気持ちとか死にたい気持ちが
フラッシュバックするのが怖くて
Noteを開くこともできなかった。

アシュタールさんはパーフェクトな存在。
何でも知っていて何でもできて
悩みや苦しみとも縁がなさそうで
いつも軽やかで穏やかでご機嫌で幸せそう…


それに対して自分は
何にもできないのに変にプライドは高くて
ちょっとしたことで傷ついて相手を恨んで
醜く地べたを這いつくばる芋虫みたい…


アシュタールさんを妬むのは
課題を見て見ぬふりするにはうってつけで
卑屈になって自分を虐めるのは
苦しいけど気持ちよくて痛いよりはマシで
アシュタールさんに比べて私なんか…って
いじけて2ヶ月ほど過ごした。

アシュタールさんは悪くない
質問に率直に回答しただけ
そんなことはわかっていて
地面を這う芋虫は愛の存在だということも
自分の課題にも本当は気づいていて
でも向き合う勇気がなかった。


私の課題は
「評価を気にしてしまうこと」


親や周囲の大人の顔色を伺って生きてきて
反抗期もなく大人になった。
先生には真面目なイイ子って言われて
良い評価をもらうことが大切だった。
だから失敗することができなくて
失敗する姿を見られるのが怖くて
できないことには挑戦してこなかった。


質問をした時もアシュタールさんから
良い点をもらおうとした。
そしてそのことはきっと見抜かれていた。
だから
「どのようなことを質問したいのかわからない」
という前書きも漏れなく必要だったし、
「評価はナンセンス」
「評価する、ということ自体が間違い」
「クソゲー」
と笑えるほどのバッサリ具合だったんだと思う。
評価についてのテストを勝手に始めて
100点を取る気満々で提出して
0点で返却されて評価について学ぶ。
実際に渡されたのは
0点のテストじゃなくて愛だったけど(笑)

アシュタールさんが私の質問に対して
返した言葉のすべては愛からのもので
私がアシュタールさんを恨んだり妬んだり
自分を卑下して虐めたりするのは
愛じゃなかった。
今はそのこともわかる。 
羨ましい気持ちはあるけど
愛をもって接してくれるアシュタールさんが
最初からずっとずっと大好きだ。

恥ずかしい気持ちが無くなった訳ではないし
更新される記事を読んでもスキもコメントもせず
このままただこっそり学べればと思ってた。
最初は記事を書く気もなかったし
ましてやリンクを貼るなんて
とんでもないことだと思ってた。
でも。
間違えて恥をかいたと思った経験を
オープンにすることも含めて
私の課題なんだろうな。

好きで入学したのにショックで不登校になって
秋からはこっそり保健室登校したりとか
オンライン授業を受けたりしてたけど
これを機に"こっそりクラスメイト"は卒業して
時には間違うことも楽しみながら
愛を学びたいと思っています。 



それにしても質問文長くて恥ずかしいな…死ねる…
そして、
評価クソゲーの卒業証書ほしい(笑)


追記

0点のテストは返されてない。
採点も評価だから。
卒業証書も本当はいらない。
校長先生に認めてもらうことは
卒業に必須じゃないから。
卒業したいのであれば
そうだと私が決めればいい。

違うな…と思った思考は
気がついた時に修正する。
こっそり書き換えるんじゃなくて
追記や別記でその軌跡もオープンにする。