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Kare



物質的にどんなに豊かになっても、ふと広い空を見上げた時、何もないはずの空に見えない天井のようなものがあるような気がして、狭いところに押し込められているような気持ちになるのです。
海や大陸や空は無限に広がっているのに。

振り返ると私は同じような場所をぐるぐる回っているだけのはずです。私の行動履歴を地図に色付けしてみれば、わたしの行動範囲など限られていて、狭いところに留まっているにすぎないのです。にも関わらず、ここまでしか出ることができないと制限をされて仕舞えば、たとえその範囲から出るつもりがなかったとしても、自分の行動範囲が制限されているという自覚が見えない鎖となって、まるでいつも大きな鳥籠の中にいるような、そんな感覚になってしまうのです。

皇族でもないのに、罪を犯して囚われているわけでもないのに、自分の自由が誰かの意思によって有限なものにされているなんて、私の一度しかない人生、もう二度とない今この瞬間がコントロールされているなんて。わたしの一挙一動が誰かに都度影響を与えているなんて。
せっかく可能性に満ちたこの時代に生まれてきたのに。自分以外の何者かにそれをなかったことにされる人生なんて。
自分とは別の個体である以上、自分と全く同じ夢を見ているわけがないのだ。それを尊重しない人間と、わたしは人生を共にできるのだろうか。このまま一生。少なくとも相手が死んでしまうまでは。

しかしながら、私の生活や物資や全ての資源の対価としてその制限を課せられているとしたら、所詮私の価値や可能性はその程度ということになるのだ。なぜなら、この理不尽とも思える状況を自分自身の手で打破できていない時点で私の人生の挑戦はその程度の実力だと知れているからなのである。
自分の力で立っていられない、自分自身を自分の手で守ることができない私は所詮はその程度の存在なのである。

自分の欲しいもの、食べたいもの、着たいもの、見たいもの、行きたい場所。自分の意思で選び取れていたものが全て、その人を通して、自分の手元に届くようになる。Uber eatsやAmazon、コンビニ、通販。欲しいと思ったときにすぐに手に入れられる環境はあるけれど。私にはそれを手に入れるすべはない。無力なのだ。たくさんの物資に囲まれていて、でも何も持っていない。自力で手に入れられるものが何一つない環境なのだ。自分が再度立ち上がり、自分自身で何もかもつかみ取る力を得るためには今浸かっているぬるま湯から脱出する必要がある。人はセーフティネットにしっかり凭れる。最悪、これがあるから大丈夫という安心は、逆に言えばそれ以上頑張る必要がないということでもあるのだ。頑張らなくても死なない環境で頑張ることは、死にそうな環境で頑張ることよりも難しい。少なくとも私にとっては。

よろしくおねがいします⁽⁽ ( ˊᵕˋ ) ⁾⁾