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高楠順次郎

たかくす じゅんじろう/1866~1945年/雪頂/浄土真宗本願寺派(西)在家/『大正新脩大蔵経』『南伝大蔵経』(編纂)/仏教学印度哲学研究・仏教運動両面の指導者

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沢井洵のちの高楠順次郎※は、現・広島県三原市の真宗門徒に生まれた。明治18年(1885)創立された西本願寺京都普通教校(文学寮)に進む。翌年、同校で起った綱紀粛正運動「反省会」の発起人となり、明治20年には『反省会雑誌』を発行する。同誌は徳富蘇峰の『国民之友』と対抗するオピニオン誌に成長し、のち『中央公論』と改名して現在に至る。

時を同じく有志と「欧米佛教通信会」、翌年「海外宣教会」を興して、海外向け英文誌『亜細亜之宝珠』、邦文誌『海外仏教事情』を創刊した。日本に紹介された「海外仏教事情」の実態は神智学協会との通信記録や欧米における近代オカルティズム文献の紹介であり、日本仏教と神智学運動の蜜月は、明治22年(1889)のオルコット大佐来日でピークを迎える。

神戸の高楠家に婿入りしたバーターで明治23年ロンドンに留学し、M・ミューラーのもとサンスクリット学などを学ぶ。同門にはのち高野山に景教碑を建てるゴルドン夫人がいた。明治30年(1897)帰国し、東大の梵文学講座を担当しつつ、一時は対英外交工作の裏方も務めた。後半生は仏教文化人のリーダーとしてインド哲学仏教学の発展に貢献し、『現代仏教』などを創刊。女性教育にも力を注ぎ、武蔵野女子学院を創設した。大正12年(1923)、渡辺海旭と連名で『大正新脩大蔵経』の刊行趣意書を発表し、昭和9年(1934)全百巻を完結。次いで門下生とパーリ三蔵の全訳となる『国訳南伝大蔵経』刊行に取り組み、昭和16年(1941)まで全65巻70冊刊行の偉業を達成した。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

※当時の彼は沢井洵といったが、筆名の小林洵を名乗ることもあった。二十二歳で神戸の高楠家に婿入りした彼は幼名「梅太郎」を「次郎」に格下げし、さらに「洵」を従順の「順」に変えて養子向けの順次郎と改名したのである。(佐藤哲朗『大アジア思想活劇』サンガ、26章より)

写真出典:WIKIPEDIA COMMONS

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