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38 サールナート寺院壁画と野生司香雪 日印仏教交流の精華|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


インドからの呼びかけ

これまで十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのアナガーリカ・ダルマパーラと日本との関係を振り返ってきた。「ランカーの獅子」と「日出づる国」との絆は、その後半生で影が薄くなった印象は否めない。しかし、ダルマパーラ生前最後の事業となったサールナート根本香室精舎の壁画制作をめぐって、両者の間にはひとつの深い縁えにしが結ばれたのである*80。

前章でも触れたとおり、一九三一(昭和六)年十一月、釈迦牟尼世尊最初の説法(初転法輪)が行われたとされるインド北部の鹿野苑サールナートに、大菩提会の勧進によって根本香室精舎ムーラガンダクティー・ヴィハーラ(Mūlagandhakuṭī Vihāra 通称:初転法輪寺)が完成する。その翌年の三月、インド大菩提会から日本の仏教関係者にあるメッセージが届く。寺院内壁にブッダの生涯をテーマとした壁画を揮毫するために、日本人画家を派遣してほしいとの要請であった*81。

インド仏教寺院の壁画を日本人に依頼する……この発議には、現地でも「インド美術界を軽視するものだ」として強い異議が出されていた*82。しかしダルマパーラは日本人画家の招聘に頑として固執し、反対を退けた。

大菩提会からのアプローチに対し、日本では『日印協会』が窓口となって折衝にあたり、画家の桐谷洗麟を渡印させることが決まった。桐谷は岡倉天心の設立した日本美術院を通じてインドへ渡り、アジャンタ石窟寺院で仏教絵画を模写した経験を持ち、御殿場の社会会館楽山荘に仏伝壁画二十二面を揮毫していた。まさに打ってつけの人材だった。しかしあろうことか、桐谷はインド出発を目前にして病を得、七月十九日に急死してしまったのである。

詩聖タゴールの激励

この事態を受けて、インド大菩提会は弔電を送るとともに、改めて外務省と文部省を通じ画家の選定を依頼してきた。日印協会での協議の結果、やはりインドでアジャンタ石窟を研究した実績があり、詩聖タゴールとの交遊もあった野生司香雪*83を派遣することが決定された。

野生司香雪 大正6年 第1回渡印時パスポートより
https://nosu.info/kosetsu-nosu-and-indian-buddhist-biography/about-nosu-kosetsu/

野生司の留守宅の後援者として浄土宗の渡辺海旭が名乗りを上げた。野生司は助手の河合志宏(彼は当初、桐谷の助手として渡印する予定だった)を伴い同年十月二十六日に東京を発ち、十一月二十五日、カルカッタに到着した*84。

「翌日原領事、西館長に伴われ、大菩提協会に仏教復興の偉勲者として輝くダンマパーラ尊者を訪うた。尊者の庵室に入り先ず印象されたものは香に霑う堆き梵典であった。尊者は余達の姿を見るや、従者を促してやをら病体を床上に起した。奄沒羅色の衣に包まれ円頂痩頬白眉を長く垂れて、さながらガンダーラ古彫刻そのままである。彼は老眼早くもうるんで余達の遠来を謝し、仏教美術の遠き日本からの招来を喜ぶとて、病苦を忘れたる如く、滾々と流泉の長広舌に時を移し、余等は薄暮窓にせまりて漸く席を辞した。」*85

次に野生司は詩聖ラビーンドラナート・タゴールのもとを訪れた。タゴールも初轉法輪寺の壁画計画に関係があり、かつ最初は壁画揮毫をタゴールの弟子筋である画家ナンダラール・ボーズと、ロシア人画家ニコライ・リョーリフ(一八七四〜一九四七)に依頼するという話もあったからだ。タゴールは野生司を温かく迎え入れ、強い激励の言葉をかけた。

「印度と日本とは民族と歴史とを異にする為に、芸術も異なっているが、この異なった両国の芸術を融合して、一つのものを作り上げるというのは洵に至難事である。君がこの度、佛教の為に描いて、印度に遺していこうという壁画は、印度人が多く見るのであるから、印度人に理解されるようなものを描いてくれ、それには不断に培われた佛教精神によって最善の努力を払ってくれ」

タゴールの言葉に野生司は戸惑った。「何等信仰もなく、また幼稚なる技術しかもたない私が、与えられた僅の時間に於て、お言葉に副うということは不可能である」

対してタゴールの曰く、「それは、君が佛に献身するということに依って、総べては盡きるのである」

しばし沈黙ののち、野生司は「いま私に与えられた詩聖のお言葉は、私にとって、こよなき金言である。この言葉に報いて、再びお目にかかることが出来るならありがたい」と礼を述べ、詩聖のもとを辞した*86。

現地にくすぶっていた日本人画家に対する反感も、インドに因縁の深い野生司の来訪によって薄らいだ。壁画揮毫に日本人が起用されたことに「インド人画家の存在を無視するもの」として反対の論陣を張っていたムクール・チャンドラ・レー(カルカッタ官立美術学校長)が、旧友の野生司の渡印に接して態度を一転させ、歓迎に回るという微笑ましいエピソードもあったという。

サールナートでの画業

そして現地へ。野生司は久方ぶりに鹿野苑へと降り立った。ヒンドゥー教最大の聖地ベナレス(ヴァーラーナシー)の近郊にある、静かな仏蹟である。野生司は半壊の姿をさらすダメーク・ストゥーパと対をなす、新築の根本香室精舎(初転法輪寺)を仰いだ。

「鹿野苑は十五年前会遊の地、一木一草皆悉く懐しく、殊に昔ながらに魏然たる法塔を仰いでは、佛恩を合掌した。……この丘に眠れる白像の如く眼を射るものは、再建の初轉法輪寺であった。紺碧の空に屋根のスカイラインは一際たちて輪喚の美を壇にし、佛教建築特有の香りにつつまれたものである。伽藍の内部は内外陣に分れ、内陣には須弥壇上高く説法印の佛座像を奉安せられ、五色の妙光は香華にたゆとうている。外陣は六間に十間鏡の如く磨かれた白光の大理石に敷きつめられ、四面の壁は白亜滑にして、これなん絵を需めて佛陀在世八十年の事蹟を画伝せんとするものである。」

野生司と助手の河合、そして二人の身の回りを世話する、ヒンディー語が巧みな通訳を兼ねた日本人老婆*87。異境での共同生活、聖地での画業がスタートした。しかし、野生司は絵筆をとるより先に、まず寺院壁面を「画面」へと作り変えなければならなかった。

そもそも初転法輪寺の内壁は壁画の揮毫を前提として作られたものではない。キャンバスは三つの入り口と数カ所の上窓によって無粋にも分断されている。しかもコンクリート壁面に直接揮毫しなければならないという悪条件が重なった。そして北インドの自然もまた、野生司の画業に立ちはだかった。壁面コンクリートのアクは大地を焼き尽くす熱波と雨期の湿気によって染み出し、容赦なく絵具を変色させていった。

野生司は自らの絵具をいちいち東北帝大にいる友人の八木精一(薬学博士)に送り付け、成分の分析を頼んだ。自らも寺院内壁にさまざまな実験を重ねて、長期間、変色に耐え得る下地と絵具とを選んでいった。結局、野生司が初転法輪寺の壁上に筆を下ろしたのは入印後実に五十日目であった。

ダルマパーラとの衝突

当時、すでに歩行が困難になっていたダルマパーラは「三輪車の乳母車様のものに乗って」野生司のもとを訪ねた。「彼は壁画完成後是非ライブラリー(サールナートにある大菩提会仏教図書館)正面に不燃性の日本家屋を作りその中には私の和服肖像を描き後世に残し度いと言っています。又三十二相、印相などに就てアヂャンタ窟必ずしも優秀ではない、寧ろ現代的研究を背景として独創と個性に立脚した現代仏教美術を表現され度いと大に雅量を示されていました」と野生司は日本に書き送っている*88。だが、実際に壁画の揮毫に取りかかる段になると、野生司とダルマパーラとの間には、画題の扱いをめぐる論争が勃発したのである。

「インド南北所伝の大小乗仏教はその教義と仏伝とに於いて一致せざるところ少なくない。インド大陸に現存せる仏教美術の多くは大乗系のものであることと、又余が年来の親みより大乗系のものに傾いて描写せんとするに、依頼者側の大菩提協会は南方セイロン僧の集団であるので、北方大乗系に縁が薄いのみならず、彼等の論拠とするところは何時も仏陀の説法が当時の通用語パーリ語で説かれあるので、その語にて記録せるパーリ原本の南方所伝こそ原始仏教として事実を物語るものであると主張したのであるが、さりとてその説を悉く採用する訳にも行かず、その取捨には相当悩まされたのである」*89

二人の間には、日々、南北仏教の教理の違いに基づく煩瑣なやりとりが交わされた。ダルマパーラは初転法輪寺の壁画に並々ならぬ熱意を見せていた。それに応える野生司ももちろん必死だった。最初に取りかかったのは、西壁の大きな場面に掛けられる壁画中最も大きな「降魔の図」であった。

シッダッタ菩薩は前正覚山での六年間の苦行に挫折した後、ニーランジャ河ほとりで村娘スジャータから乳粥の供養を受ける。蘇生したシッダッタはブッダガヤの菩提樹下に結果趺坐し、悪魔どもの誘惑を退けてついに正覚を得るのだ。ブッダの生涯のハイライトともいうべき、この大画題を先にしたのは、「万一にも未完成のまま倒れることがあっても」*90という悲壮な覚悟ゆえであった。

「……この構図中尊者ダンマパーラは毎日のように来り、図様に対し彼是と意見を挿まれる。若し尊者の意見に従い得ざる時は、確たる根拠を示さない限り、彼は一歩も譲ろうとしないで随分困った事もある。その最も論難とせしは仏陀の印相である。彼は構図の仏陀が右手を膝に伏せて垂れたる印相を指して、これは瞑想の手印なれば掌を表にせよと説く。余は反駁してそれは興願の印なり、又印度に現存せる仏像古彫刻中貴説に符合するものは、ブッダガヤの本尊をはじめ多数のものにその例を見ず、僅かにアジャンタ窟院の壁画と彫刻とにそれを見るのみであると応答したが、彼は曰く、降魔の僅かに五分間の刹那の印相は必ずかくあらねばならぬと、遂に譲らずして大に困ったのであった。かくの如くその他の構図にも南北の異論続出してその都度随分困らされたが、尊者入寂してより最早かかる問題はあまりに起こらなくなった。しかし顧みればかれの反駁こそその悉くが研究の対象となりて、余をして不知不識の間に磨励せしめたのであった。」

根本香室精舎(初転法輪寺)本堂の「降魔成道」図。野生司香雪が手がけた最初の画題

そして「降魔成道」完成の日。

「……降魔成道の壁画が完成した時、ダンマパーラ尊者は従者と共に来り、絵の隅から隅まで仔細に鑑賞して正面に立ち、壁上なる仏陀に対座して暫く瞑想の後余と言葉を交わし、アヽこれで宿望を達したと釈然として語った。」*91

釈迦牟尼世尊の右手のひらは、ダルマパーラのリクエストどおり、たなごころを表に悠然と魔を退けていた。

相次ぐ外護者の死

渡印の翌年、一九三三(昭和八)年一月には野生司の後援者であった渡辺海旭が急死する。追いうちをかけるごとく、四月二十九日には彼がインドでの親と頼みにしていたダルマパーラも入寂した。このとき、野生司は東西の支柱であった二人の外護者を、ほとんど時を同じくして失う最悪の事態に陥ったのである。 野生司は当初五、六カ月で完成すると見積もった予算しか持ち合わせておらず、その資金はすでに尽きていた。彼の画業はまだ半ばにも至っていない。

「壁画の作業は十月より翌年の四月まで描くので、四月の中旬になると、鹿野苑の気温は百十度内外の灼熱に爛れる。壁は熱のため絵具の使用に自由を得ないので中止を余儀なくされる。それで五月から九月までの間は酷暑を避けて小品の制作に力をそゝぎ、その作品を大方の同情に處分して資金を調達するのである。そのため五月から九月の五箇月の永い間も壁画の下絵だにみることが出来ず、小品の制作には日なお足りないのである。かくして資金を稼ぎながら前進するのであるから、一日の途を二日で歩むということを免れない。」*92

野生司は避暑地であるシムラから初めてボンベイ、コロンボ、マドラス、カルカッタ、ラングーンと次々に個人展覧会を催した。「何時も日本人間の同情に依って、予期以上の成果を挙げ、かくして資金を得ては一歩進み、また一歩進むという風にして……」*93 野生司は描き続けた。なかでも一九三五(昭和十)年十月、セイロンはコロンボで個展を開いた際には、ダルマパーラの一族ヘーワーウィターラナ家が野生司に住居を提供し、スリランカ各界あげて彼をバックアップした。渡印から五年目の一九三六(昭和十一)年四月十五日、野生司は全壁面に三十の画題を描き了え、長きにわたる宿願を成就せしめた。

成就の墨跡

揮毫から六十年以上を経たいまも、野生司の壁画は北インドの厳しい気候に耐え続けている。

ブッダガヤの大塔を模した、重厚な石造りの寺院。本尊に据えられた金色の釈迦座像は、サールナート考古学博物館所蔵の有名な初転法輪座像の、あまり出来のよくないレプリカ。北インドの風土と張り合うにはいささか淡泊にも思える、日本画風の仏伝壁画(どこか手塚治虫を連想させる)。根本香室精舎の佇まいはどこまでも統一感に欠けたままだ。

しかしそんな「持ちよりの聖地」に、ホコリまみれの巡礼たちは黙々と、五体投地を繰り返していた。色あせて中間色にぼやけたブッダの生涯を、食い入るように見つめていた。

野生司が絵の具の色を奪うコンクリートの灰汁と格闘していたとき、突き止めたのは、日本の墨の、絶対に色あせぬ事実だったという。その墨をもって、画業の終わりに記されたのは、次のような言葉であった。

此壁畫ハ大菩提協會ヨリ日本政府を通ジテ
依嘱セラレ 佛紀二千四百九十八年ヨリ同
二千五百二年ニ至リテ完成ス
斯費用ハ英人 佛教徒ビー、エル、ブロートン
氏ノ寄付ニ始リ他ハ畫作者ガ雨期ニ於テ幾多ノ作
畫ヲナシ印度錫蘭緬甸ノ各地ニ數回
ノ展覧會ヲ催シソノ収益ヲ以テコレニ當ツ
残餘ハ日本政府及ビ日本印度民間篤信者ノ
喜捨ニヨリテコレヲ支ヘタリ
今茲ニソノ有縁信士ノ爲メ謝意ヲ表ス
壁画造爲ノ大願成就ハ偏ニ
佛陀ノ廣大無邉ナル慈恩ノ賜ト合掌禮拝ス
皇紀二千五百九十六年
野生司香雪 拝記 

根本香室精舎本堂の片隅に記された野生司の直筆と英訳・ヒンディー語訳

註釈

*80 根本香室精舎(Mūlagandhakuṭī Vihāra 初転法輪寺) の開寺式は同年十一月十一日から三日間にわたって執り行われ、その間サールナートに千人近い訪問者を宿泊させた。その半数以上が海外からの参列者であった(〝Flame in Darkness〟p109)。

*81 『渡辺海旭研究 その思想と行動』芹川博通著、大東出版、一九七八年巻末年表

*82 「初轉法輪寺の壁画」野生司香雪 『日印協会会報』第五十五号、一九三四年六月

*83 野生司香雪(のうすこうせつ)一八八五〜一九七三。明治十八年十一月五日、香川県檀紙村(現高松市)生まれ。本名述太(のぶた)。父(義問)は浄土真宗の僧侶。三十六年香川県工芸高校を卒。東京美術学校日本画科に進み、四十一年卒業。卒業制作に「黄泉」を描く。四十年東京勧業博覧会に「しずか」入選。四十四年、美術研究会正会員になり、大正四年同会第一三回展で「月の香」三等賞。大正三年、再興日本美術院に研究会員として参加。五年院友となる。翌六年から仏教美術研究のためインドに渡り、荒井寛方を助け、七年にはアジャンタの石窟壁画を模写した。帰国後に八年、京都帝室美術館などで模写展を開催した。そのころ第九回院展(昭和九年)に出展した「窟院の朝」他、「印度アジャンタ窟院途上の巻」「大雪山」「恒河の畔」などインドに取材した作品を描く。昭和七年、インド・サールナートの初轉法輪寺壁画を、急死した桐谷洗麟にかわって製作開始。十一年完成。壁画の下絵は二十五年、永平寺に献納された。二十二年、善光寺雲上殿壁画完成。その後しばしば脳出血の治療を繰り返しながらも製作を続けた。四十八年、仏教協会より仏教美術賞を受けた。昭和四十八年三月二十八日没。(『近代日本美術事典』講談社、一九八九年、参照)

*84 「初轉法輪寺壁画完成の顛末」日印協会理事 副島八十六『日印協会会報』第六十一号、一九三七年四月

*85 「初轉法輪寺壁画完成の顛末」

*86 「鹿野苑壁画揮毫の苦心談」野生司香雪『日印協会会報』第六十一号、一九三七年四月

*87 この老婆はいったいどんな身の上だったのだろうか。ちなみに大正二(一九一三)年八月二十一日付『中外日報』には、「印度に於る日本売春婦の生活」という見出しで、カルカッタには日本人売春婦を置く廓があって「日本の女が沢山稼いで居る」との記事が載っている。そのままインドに居ついてしまう女性もいたらしく、記事のなかで「十年も前にもう六十歳近い婆さんであつたカルカツタのお千代さんと云ふのは有名なもので印度へ行つて少し難儀した日本人でこの女の世話にならぬものは無いと云ふ程である。貧乏で帰るに帰られぬと云ふ様になつたものには旅費などを遣つて無事に本国へ帰す、其他金に困つたものは皆なこのお千代さんの世話になるのに定つてゐた、お千代さんは大阪の生れでかなり高等な教育を受けたのだがそれが不図したことで海外へ出た、無論こんな稼業をする考ではなかつたのであつたが何時の間にかこう云ふことになつて仕舞つた、今では年も取つて居るがもう自分は稼業を止めて若いのを使つて居る」云々とある。お千代さんの顕彰のために紹介しておく。

*88 「野生司画伯の滞印通信から」(上・下)、『中外日報』昭和八(一九三三)年三月二十三日、二十四日

*89 「鹿野苑壁画揮毫の苦心談」

*90 「鹿野苑壁画揮毫の苦心談」

*91 「初轉法輪寺壁画完成の顛末」

*92 「初轉法輪寺壁画完成の顛末」

*93 「鹿野苑壁画揮毫の苦心談」

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