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清沢満之

きよさわ まんし/1863~1903/骸骨・臘扇など/真宗大谷派(東)/『宗教哲学骸骨』『精神主義』/『歎異抄』を再評価した真宗思想家

満之は、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。明治11年(1878)学問を続けるため東本願寺の僧侶となり、留学生として東京大学を卒業し大学院に進む。在学中は井上円了らと哲学館(現・東洋大学)の創設に参与する。明治21年(1888)京都府尋常中学校長に赴任、三河大浜の西方寺に入り婿し同寺住職となる。明治25年(1892)最初の本格的著作『宗教哲学骸骨』を上梓。野口復堂の手で英訳されると、翌年シカゴ万国宗教会議の場で発表された。

明治29年(1896)、満之は同志と雑誌『教界時言』を発刊し、京都白川村に篭って大谷派の宗門改革運動に乗り出す。「白川党」と呼ばれ、村上専精ら多くの賛同者を得るも敗退。満之は東京に移り、明治33年(1900)シンパ青年らと本郷森川町に浩々洞を設け、雑誌『精神界』を出版し「精神主義運動」をはじめる。同年、真宗大学(現・大谷大学)の初代学監に就任するも学生の反発で頓挫。明治35年(1902)職を辞して大浜に帰る。

家庭でも長男、妻を相次いで亡くし、自らも肺結核の悪化で翌年没した。満39歳であった。絶対他力の信仰を西洋哲学の素養を駆使して再構築し、一方で教団組織の民主化を訴えた内外の功績は大きい。学校経営には失敗したが、暁烏敏、曾我量深、金子大栄、佐々木月樵など優れた弟子に恵まれた。ちなみに現在広く読まれる『歎異抄』は宗門内では長く秘匿されてきた文書で、満之は同書を宗門改革運動の過程で再発見・再評価した。満之によって近代以降の日本人の親鸞観は大きく塗り替えられたのだ。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)




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