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大谷光瑞

おおたに こうずい/1875~1948/鏡如/浄土真宗本願寺派(西)/『濯足堂漫筆』『印度地誌』/西本願寺門主22代門主

21代明如の長男で、妻は貞明皇后の実姉というサラブレッド。当時としては巨体といえる183センチの背丈。明治36年(1903)に父の死に伴って門主を継承すると、八千七百余の末寺と約七百万の信徒、そこから献納される膨大な資産を駆使し、汎仏教主義的、大アジア主義的な宗門の世界戦略を推進した。自身が参加した明治35年(1902)の第1次から3次に渡る「大谷探検隊」による中央アジア探検隊は特によく知られる。

明治38年(1905)日露戦争勝利の年、大阪湾を臨む六甲山の景勝地に王宮の如き別荘「二楽荘」を建立した。付随する武庫中学をエリート養成機関と位置づけ、全国から俊才を集めた。多田等観の弟も武庫中学の第一回生だった。京都西本願寺の本部機能は、一時この二楽荘に集中したと言われる。

大正3年(1914)光瑞は門主の地位を辞して隠居してしまう。付属財団の基金を流用した疑いで、西本願寺の重役5人が逮捕された責任を取ったのだ。財政破綻の原因は日露戦争の時の軍費献納、軍隊慰問、前線布教、遺族支援などで、それらに要した費用が本願寺の財政を苦しめたらしい。

光瑞は隠居の後、アジア各地で農園を経営するなど、大半の時間を海外で費やした。晩年は大陸経営に大きな夢を抱いた。祖国敗戦が濃厚になっても、日本の青年10万人をインド・カシミールに送り込み、その地方の娘と結婚させて日本民族の発展を計ろうという箆棒な計画を立てていたという。敗戦後、大連で抑留された光瑞は、昭和22年(1947)の引揚げ船で帰国し、翌年、病気療養中の別府市鉄輪で示寂した。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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