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正受老人の「一日暮し」

正受老人として知られる道鏡慧端(1642-1721 至道無難の弟子、白隠慧鶴の師)の仮名法語。水上勉『一日暮し』(角川書店,1996)に孫引きされたテキストをひ孫引きしておく。

「或る人の咄に『吾れ世の人と云ふに、一日暮しといふを工夫せしより、精神すこやかにして、又養生の要を得たり』と。如何となれば、一日は千年万歳の初なれば、一日よく暮すほどのつとめをせば、其の日過ぐるなり。それを翌日はどうしてかうしてと又あひても無き事を苦にして、しかも翌日に呑まれ、其の日怠りがちなり。つひに朝夕に至れば翌日を工夫すれば、全体にもちこして今日の無きものに思ふゆゑ、心気を遠きにおろそかにしそろ也。とかく、翌日のことは命の糧も覚束なしと云ふものの、今日のすぎはひを粗末にせよと云ふではなし。今一日暮す時の務めをはげみつとむべし。如何程の苦しみにても、一日と思へば堪へ易し。楽しみも亦、一日と思へばふけることもあるまじ。愚かなる者の親に孝行せぬも長いと思ふ故也。一日一日を思へば、退屈はあるまじ。一日一日とつとむれば百年千年もつとめやすし。何卒一生と思ふからにたいそうである。一生とは永いと思へど、後の事やら翌日の事やら、一年二年乃至百年千年の事やら知る人あるまじ。死を限りと思へば、一生にはだまされやすし、と。一大事と申すは今日只今の心也。それをおろそかにして翌日あることなし。総ての人に遠き事を思ひて謀ることあれども的面の今を失ふに心づかず」

水上勉『一日暮し』角川書店,1996

パーリ増支部「死念経 maraṇassatisuttaṃ」(AN6-19,20)を基準とすれば、「一日暮しなどのんびりしすぎ!未徹在!」と釈尊の叱責が飛んでくるかも知れないけれど、近世日本仏教らしい地に足ついた味わい深い法語と思う。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


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