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オピニオン 戦後70年の曲り角 新安保法制を問う9「不殺生は人類の根本戒律」

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日本テーラワーダ仏教協会 佐藤哲朗

戦争法案を止めるための行動に参加しています。武器輸出の推進、限定的核使用の容認、解釈改憲による集団的自衛権の容認、そして戦争法案の国会上程など、日本人は誰も戦争など望んでいないと為政者は嘯くけれど、日本を戦争「も」できる国にしたいという自公政権の意志に危機感を強めています。立憲主義の危機が叫ばれるほど強引な政府の姿勢は、アメリカの意向のみならず「憲法9条があるから日本は近隣諸国になめられている」という一部の国民感情にも後押しされていると思います。戦争放棄と戦争のための軍備を放棄した日本の国柄を一気に変えようという、この奔流にどう抗していけばいいのか。仏教に関わることで禄を食むものとして、とりわけ僧侶ではなく在家仏教者としてお釈迦さまに学んでいる視点から、訴えたいポイントがあります。

それは、「不殺生は人類の根本戒律である」ということです。パーリ長部26『転輪聖王獅子吼経(チャッカワッティ・シーハナーダ・スッタンタ)』は、古代インドの伝説的聖王である転輪聖王のエピソードを通して、人類社会の社会発達・衰退の歴史観を伝える経典です。経典には、現在は百年の寿命を保っている人類が道徳の乱れなどによって徐々に寿命が短くなり、ついに寿命が十年にまで縮まるディストピアの惨状が描かれます。悪のみに染まった人類社会は、隣人同士が相互を獲物とみなして絶滅寸前まで殺しあうに至るのです。「刀の中劫」と呼ばれる七日間の大虐殺です。ここで人類滅亡と思いきや、一部の人々は殺し合いをすることを嫌がって森の中などに隠れて生き延びていたのです。「刀の中劫」をやり過ごしたわずかな人類の生き残りは、お互いの生存を喜びあい、ある約束を結びます。経典から引用しましょう。

「比丘たちよ、そこで、かれら人々はこのように考えるはずです。〈われわれは、もろもろの不善法を引き受けることによって、このように長い間、親族の滅亡を蒙ってしまった。われわれは善を行うことにしてはどうか。いかなる善を行うべきか。われわれは、殺生から離れることにしてはどうか。この善き法を引き受けていくことにしてはどうか〉と。」(訳・片山一良)

完全に崩壊した人類社会を再建する礎として、まず「殺さない」という約束が取り決められたのです。この「善き法」を先駆けとして、人類は徐々に寿命を増して、世界は豊かさと繁栄を取り戻した、というのが『転輪聖王獅子吼経』の教えです。仏教の戒律といえば、誰もが第一に「不殺生」を掲げますが、お釈迦さまが出家者のために最初に制定したのは、「不淫」の戒律です(パーリ律蔵)。不殺生の戒めは、ブッダの記憶すら無かった時代に取り決められた「人類の根本戒律」なのです。

もちろん、経典の教えは一種の寓話です。しかし人類史をつぶさに観察すれば、規模の大小はありますが何度も「刀の中劫」に似た悲劇が繰り返されています。日本にとっては先の大戦がそれでした。昭和天皇の終戦(敗戦)の詔書にも、戦争の継続は「終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし」とあります。近代日本の「刀の中劫」たるアジア・太平洋戦争の惨禍を経て、私たち日本人が取り決めた「最初の約束」こそが日本国憲法であり、なかでも戦争放棄をうたった憲法9条の条文ではないでしょうか?

その結果として、戦後日本は平均寿命も延び、経済的に豊かとなり、社会の多様性も進んできました。仏教界に目を転じても、日本仏教の伝統的システムは変容を迫られてますが、上座仏教やチベット仏教を含めて、世界中の仏教を学べる平和な国になっています。お釈迦さまの教えは寓話であってもやはり真理です。この社会を維持できるかどうかは、私たちが「刀の中劫」から学んだ「人類の根本戒律」を守っていけるかどうかにかかっているでしょう。「殺すなかれ、殺さしめるなかれ」という声を力強く掲げていく必要があると思います。

※初出:週刊佛教タイムス(株式会社仏教タイムス社)2015年8月20日号

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