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多田等観

ただ とうかん/1890~1967年/トゥプテン・ゲンツェン/浄土真宗本願寺派(西)/『チベット』『西蔵撰述仏典目録』/チベット留学僧

秋田市土崎港の西船寺に生まれる。友人の誘いで上洛していた時、大谷光瑞の命でチベット留学僧の日本語学習の相手をつとめ、秋田弁を教え込んだ。明治45年(1912)3月にはインドでダライ・ラマ13世と謁見し、そのチベット語学力に感激した13世からチベット名トゥプテン・ゲンツェンを授けられた。

ダージリンでチベット語研鑽に励んだ多田は、大正2年(1913)1月付けで出された光瑞の辞令により、西蔵入りを決行する。英印政府の目をくぐりぬけ、ブータン人巡礼を装って国境の6500mの峠をはだしで越えた。同年の9月末、ラサにたどり着いた等観は、正式な留学僧として遇され、三大寺のひとつセラ大僧院に入って論理学(因明学)を徹底して修め、ゲシュー(博士)の次に位する「チュンゼ」の称号を得た。日本から来た学僧、等観の名声は遠くモンゴルまで知れ渡った。

ダライ・ラマ13世は等観の修学環境を整えたのみならず、留学中はずっと親しい友として接した。等観もその厚意に答え、花をこよなく愛する13世のため、チベットでは咲かない蓮の実を日本から取り寄せて、見事ラサで開花させた

大正12年(1923)3月、等観は11年ぶりに帰国する。門外不出だったデルゲ版大蔵経をはじめ、持ち帰った経典・文献は総計24279部に及んだ。チベットから落丁分を取り寄せながら、チベット大蔵経の総目録としては世界初となる『西蔵大蔵経総目録』(昭和9年)戦争による中断を挟んで『西蔵撰述仏典目録』(昭和28年)を完成させた等観は、昭和30年、日本学士院賞を受賞した。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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