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南條文雄

なんじょう ぶんゆう/1848~1927年/浄土真宗大谷派(東)/碩果/『懐旧録 サンスクリット事始め』『梵学講義』/明治を代表するサンスクリット学者

日本の近代サンスクリット学(梵語学)の祖である南條文雄は岐阜県大垣市の大谷派末寺、誓運寺に生まれた。幕末の激変期に青春を過ごし、18歳の頃には大垣藩内真宗寺院の僧侶による僧兵部隊に召集された。維新後は京都東本願寺の高倉学寮に学び、そこで学僧の南条神興に見込まれ、神興が住職を務める福井県南条町の憶念寺に入婿した。明治9年(1876)には石川舜台から白羽の矢を立てられ親友の笠原研寿とともに英国留学し、マックス・ミューラーに師事して梵語学を学んだ。

文雄と研寿はロンドンやパリに赴き学究生活に明け暮れたが、研寿は肺結核に罹患して明治15年(1882)に帰国を余儀なくされ翌年死去する。残った文雄の名声は高まった。特に漢訳経典の目録を英訳した『英訳大明三蔵聖教目録』は漢語に疎かった当時の欧州の学者たち重宝がられ、「南條カタログ」として読み継がれた。

明治17年(1884)には、実父の訃報もあり、文雄はミューラーの慰留をふりきって帰国するのだが、その際にオックスフォード大学は彼に名誉学位を与えた。帰国後は東京帝大文学部の講師となり梵語を教授し、明治21年(1888)6月には、文部省から日本で初めて、文学博士の学位を授けられる(加藤弘之ら計7名)。

『梵文法華経』校訂本の刊行など、その後の学術面での足跡は枚挙にいとまがないが、碩果と号して漢詩をよくし、たくみな話術で布教師としても大衆的人気を博すなど多才ぶりを発揮した。夭折した笠原研寿の名を残したのも彼の尽力だ。自伝『懐旧録』は明治仏教の息吹を伝える資料として定評がある。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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