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釈雲照

しゃく うんしょう/1827~1909年/雲照律師/真言宗/『大日本国教論』『予が信仰』/戒律復興を唱えブッダガヤ復興運動にも取り組む

吾輩は猫である』文中にもその名が記されている釈雲照は出雲(島根県)の出身。俗姓は渡辺。明治初頭、高野山女人禁制の撤廃を伝える新政府勅使に全山恐懼するなか、ただ一人立ち向かった逸話が残る。高野を下った廃仏毀釈の嵐に抗すべく、仏法擁護の建白書を多数したためて京都・東京を奔走する。その尽力により、明治4年(1871)から中絶した宮中の「後七日御修法(みしほ」を、同16年(1883)に東寺に場所を移して復活させ、護国仏教たる真言宗の面目を取り戻した。

雲照はその後、真言宗の統一と宗門改革に尽力するが果たせず、明治20年(1887)、東京目白に目白僧園を設立し、戒律厳守の修道生活を通じて弟子の教育を行った。山岡鉄舟の選で慈雲尊者の『十善法語』を再版して「十善戒」による仏教道徳の普及を図り、主要経典の和訳(国訳)にも取り組んだ。その高徳を慕い山県有朋ら明治の元勲、青木貞三、森村市左衛門、澤柳政太郎、廣池千九郎といった多くの政財界人・知識人が帰依した。

明治21年(1888)、南方仏教の研究とインド仏蹟の視察のため、甥の釈興然をスリランカに派遣する。現地で比丘となった興然は、明治23年(1890)、A・ダルマパーラとともにインドに赴き、釈尊成道の聖地ブッダガヤを復興する運動に乗り出した。日本でも仏教徒の連帯機運は一気に高まったが、ヒンドゥー領主や英国インド政庁の反対もあって紛争は長期化し、目的を達することはできなかった。一方、スリランカから帰国した興然(比丘名グナラタナ)は、上座部仏教の比丘サンガを日本に移植するため生涯をかけることになる。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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