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島地黙雷

しまじ もくらい/1838~1911年/雨田(他多数)/浄土真宗本願寺派(西)/『三条教則批判建白書』『仏教各宗綱要』/政教分離を唱えた真宗指導者

山口県佐波郡和田村、西本願寺専照寺に生まれる。後年、仏教学者の島地大等を養子に迎えるが、黙雷も他寺に婿入りしてから出世した。明治元年(1868)31歳のとき、赤松連城らと本山諸制度の改革を建議し、郷国の防長二州の本山末寺の改革を断行。明治3年(1870)本山参政となる。翌年、明如上人の命で東上し、明治新政府の仏教圧迫に対して太政官に寺院寮や教部省の開設を建議した。明治5年1月、黙雷は連枝梅上沢融に従い、赤松連城・大洲鉄然らと共に欧州へ向かった。この年、東西本願寺は仏教廃滅の危機を打開すべく相次いで欧州の宗教事情視察に人員を派遣している。

渡欧中、黙雷は岩倉使節団の木戸孝允と頻繁に会合し、明治政府の宗教政策を転換させる方策を検討した。そしてパリから西洋の近代先進諸国の実情を知らせ、「三条の教則」による神道国教化政策(神道優位の神仏合体政策)を痛烈に批判する建白書を送った。欧州視察の帰路、仏教徒として初めてエルサレム、さらに北インド仏教遺跡を巡拝。翌年7月に帰国した黙雷は、欧州仕込みの「政教分離」「信教の自由」というスローガンを掲げて真宗の大教院離脱を指導し、仏教復興の端緒をつけた。

黙雷は、西本願寺派の長州閥として明治政府要人と太いパイプを築いた。深刻な資金難で苦しむ新政府は、全国に信徒を持つ真宗(とくに西本願寺派)の資金力に依存していたのだ。廃仏毀釈から神道国教化の瓦解にいたる経緯も、仏教が神道にやられっぱなしとはいえず、真宗の政僧グループが権謀術数で勤王気取りの書生連を手玉に取った作戦勝ちという観方もできる。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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