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井上円了

いのうえ えんりょう/1858~1919年/甫水・不思議庵・妖怪窟・非僧非俗道人/真宗大谷派(東)/『真理金針』『仏教活論序論』/東洋大学の創設者

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「妖怪博士」の異名を持つ井上円了は、新潟県越路町の慈光寺に生れた。地元で神童ぶりを発揮したのち京都の東本願寺(真宗大谷派)で給費生に選ばれ、東大予備門を経て、明治14年(1881)東大文科大学哲学科に入学する。

日本近代化には哲学の普及が急務と考えた円了は、在学中の17年に三宅雪嶺・大内青巒らと哲学会を組織する。20年(1887)に『哲学会雑誌』を創刊、同年初の哲学専修学校・哲学館(現・東洋大学)を創立し、日蓮主義のリーダー本多日生、チベット探検の河口慧海ら、数多の人材を世に送り出した。ちなみに三宅雪嶺ら同人と翌年結成した『政教社』の名付け親も円了。

彼が世に出た明治10年代は欧化主義とキリスト教勃興の時代であった。円了は寺院出自だが最初から仏教プロパーではなく、西洋哲学というフィルターを通して仏教を再発見・再評価するに至った。「仏教を改良して、これを開明世界の宗教となさん」と奮起した円了は、『仏教活論序論』『真理金針』等の啓蒙書を立て続けに上梓する。西洋哲学とりわけヘーゲルの思想に導かれた教理解釈は円了が先鞭をつけ、近代仏教思想の展開を後々まで規定していった。

早くから「コックリさん」研究に取り組んだ円了は、明治26年(1893)から翌年にかけ『妖怪学講義』を刊行し、迷信打破の闘士としても名を馳せた。一方、高島米峯・境野黄洋ら哲学館門下の青年仏教徒は、明治32年(1899)に「仏教清徒同志会(後の新仏教徒同志会)」を結成し、初期社会主義者とも交流を持ちつつ、新時代の仏教を模索することになる。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

写真:WIKIPEDIA COMMONS

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