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仏教を知るキーワード【01】さとりと解脱 ~仏教徒がめざす修行の完成~

心が煩悩から解放された心解脱と煩悩が完全に断たれた慧解脱の2種類がある

「さとり」という言葉は仏教用語としてよく使われるが、いざ定義しようとすると曖昧な用語でもある。初期仏教では修行の完成は「涅槃(ねはん,ニッバーナ)」と呼ばれる。涅槃に達するまでには、預流果(よるか)・一来果(いちらいか)・不還果(ふげんか)・阿羅漢果(あらかんか)という4段階で「解脱(げだつ)」を体験し、徐々に煩悩(ぼんのう、心の汚れ)を滅しなければならない。最終的に阿羅漢果に達するとすべての煩悩が絶たれ、もう二度と輪廻転生することがない涅槃の境地に到達するとされる。

日本語の「さとり」に近い用語は、「解脱」だが、この解脱には二種類ある。心解脱(しんげだつ)と慧解脱(えげだつ)である。心解脱は修行のプロセスで体験する一時的な「悟り」で、時解脱とも呼ばれる。安定した禅定に入ることで、心が煩悩から解放された状態である。もう一方の慧解脱は、智慧を開発して無明(むみょう、無知)を滅ぼすことを言う。慧解脱を体験すると、煩悩は完全に絶たれ、二度と生じなくなる。先ほどの四段階の「解脱」は慧解脱のことである。しかし、智慧の開発を支えるのは禅定(ぜんじょう)の集中力であるから、慧解脱は心解脱とともに起こるのが普通である。これを倶分解脱(くぶんげだつ)と言う。

ゴータマがブッダとなる前に師事したカーラーマやラーマプッタは禅定の達人であり、「心解脱」は幾度となく体験していた。しかし彼らの解脱は、禅定という特殊な心理状態に依存した一時的なものに過ぎなかった。ブッダは智慧によって無明を完全に滅ぼし、どんな状況でも決して揺るがない「不動の心解脱(=慧解脱)」を完成したのである。仏教徒の「さとり」は、慧解脱でなければならない。ブッダが推奨した智慧の開発とは「因果法則(存在の方程式)」の発見であり、そのために禅定が不可欠というわけではない。ブッダとの対話によって法眼(ほうげん)が生じた=預流果になった、という場合に起きているのは、禅定を伴わない慧解脱である。

※『総図解 よくわかる 仏教』(2011,新人物往来社)に寄稿した原稿を再編集して掲載していきます。
※2018年11月20日に内容をアップデートしました。

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