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意味は、次の春に来る

新春。

正月の静けさから一転、渋谷の街はいまにも走り出さんとする競走馬のように鼻息を荒げている。

空気が抜け真空状態になった四角い入れ物に、うねるように脈打つ空気が一気に吹き込んでくるようだった。

誰に強制されるでもなく新年がやって来て、抗うことなく皆の上に等しく同じ時間が流れている。

僕もまた、誰に頼まれるわけでもなく昨年度を振り返り、新年の抱負を描いてみた。

そこでふと思う。

抱負なんて無くてもいいんじゃないか。

いま到達地点を描き、一歩一歩確かめながら盲目的に歩みを進めて行くことで、苦しさを覚えてしまうのではないかと思った。

すべてのことに「意味を見出すこと」に少し疲れてしまったということもある。

この数年間、時間を効率的に使おう。行く場所も、接する情報もちゃんと選ぼう。そんなことばかり考えていたように思う。

仕組みを効率的にするのはいい。でも、人の気持ちに「効率」なんて数式を当てはめられるんだろうか。そんなことばかり考えていたら、四六時中追い詰められた気持ちになりはしないだろうか。

目標を立てることは良いことだ。何につけても、まずゴールを定めなければ行くあてもなくさまようことになる。まっすぐ垂直な目的意識を持った言動ができる人は素直に尊敬できる。

サン=テグジュペリの『星の王子さま』にこんな一節があった。

計画のない目標は、ただの願い事にすぎない。

「計画性」は大切である。

しかし、だ。

すべてに意味を持たせようとする過剰な意識が「意味のない」ことの持つ余白を塗りつぶしてしまうのではないか、とも思う。

余白があるから外部の不意な刺激を受け入れられる。イメージが生まれる。あふれんばかりの容器の中じゃ息継ぎするのも一苦労だ。

「新年の目標は?」と聞かれるのが苦手である。

考えてはみるものの、未来のことなんて果てしなくわからない。そんな質問に対し自分の口からからこぼれるのは「健康でいたい」「目の前の目標を達成したい」というような、訥々とした言葉たちだった。

2018年を振り返ってみたが、それ以前の自分がまったく予測もし得ない有象無象が起こっている。それでも確かに前に進む感触があった。

1、2ヶ月で人はあっさり変わってしまう。どんなことに興味をもって、どんなことを成し遂げたいかなんてあっさりと。ましてや1年後、2年後なんて。

だから先のことを決断しても、いま「本当に意味らしい意味」なんて見出せない。約束になるはずの言葉はあっさりと中身を失い、空中に立ちのぼって消えてしまう。

もちろんそんなこと人による。僕がただ感じたことだ。

"人間、意味だけで生きてんのか?”

頭の中で残響となってこだました。

秋元康さん作詞の楽曲、『365日の紙飛行機』にはこんな歌詞がある。

人生は紙飛行機
願い乗せて飛んでゆくよ
風の中を力の限りただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだかどこを飛んだのか
それが一番大切なんだ
さあ心のままに

ただまっすぐ、一本道を描いて全速力で飛んで行くのもいい。

でも、道中の明後日の方向にだって新しいルートが見つかるかもしれない。風をゆるりゆるり手足にまとって、ただただ漂うことに力を注いだっていい。いわば、“Don’t think , feel” である。

意味を見出せない時間の積み重ねが、意味になるのは後からわかる。道筋になる「流れ」を自ずと誘導するように。

だからいまは、その瞬間のゼロコンマ1秒に生まれた感情に素直に従ってみることにしよう。

いま何かを感じ捉えることができるのは、過去でも未来でもない、いまの自分以外の何者でもないのだから。

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