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窓からの風景

生まれ育った家を、おととしの秋に手放した。
両親はいま同じ老人ホームで十分な介護を受けながら、恙なく暮らしている。
だからその対価として家を失うことに、なんの躊躇も未練もなかった。
なのに今夜は、たまらなくせつない。

ふとした瞬間に「ああ、もうあの家はないんだ」と頭をよぎることは、これまでに何度もあったし、実際に何度も、取り壊している様子や、新しく建った家の話などを耳にしている。更地になったときも足を運んで、しばらくその場に立ち、隅から隅までじっと見つめた。わたしなりに、あの家ときちんとお別れをしたつもりだ。不思議と涙は出なかった。

今日は日曜日だけれど、外は寒いし、出かけるのも億劫だったので部屋の片付けをした。それなりにさっぱりしたなと思いながら、押し入れに入れたままの実家の荷物が気になった。家を片付けたときにかなりのモノを処分したが、やはりどうしても捨てられない思い出の品はある。捨てるにしてもゆっくり選別する余裕がなかったので、それらを無造作に段ボールに詰め込んだ。結局、箱はあれから一度も開けず、東京の自宅に置いたままになっている。

先日、いつものように名古屋へホームの両親に会いに行ったとき、地元の友人から「新しい家、まだ売れてないみたい」と聞いた。ほんの興味本位で、ネットで検索してみたら、かつての住所に建つ新築の家が載っていた。その「新しい家」を見るのは初めてだ。

今時の若い家族が好むような、お洒落な外観である。当然、間取りもまったく違う。裏の小さな坪庭は無くなって、その分とても広いリビングとキッチンに変貌していた。

当たり前だが、もう人手に渡って他人事なので、買い主の建築会社がビルにせず(大通りに面した商業地域だから店舗にするのかと思っていた)、普通の一戸建てにしたんだな、いい家になってよかったな、と、公開されている内部の写真をぼんやりと眺めていた。

しかし、パソコンに映し出されたそれを見た瞬間、わたしは思わず息を呑んだ。

窓である。厳密にいうと窓からの「眺め」。

その新しい家の写真の、新しい部屋の窓やバルコニーの外に映し出された風景が、胸を締めつけた。

懐かしいあの道、隣の駐車場、裏の屋根。

そこからずるずると、様々な風景の断片が掘り起こされていく。もうとっくの昔、何十年も前に伐られた表通りの柳の木や、そのあとに植えられてやがてまた伐られた桜、坪庭の薔薇まで。時間を遡り、記憶の彼方から引き戻されたように。

同時に、胸の奥でつかえていた何かも吹き出したらしい。

困ったものだ。今頃せつなくなるなんて。

段ボールの荷物には、いつになったら手をつけられるのだろう。困ったものだ。ほんとうに。

追伸。見出しの写真は、数年前、実家前に咲いていた「強い花」です。雑草のように自生して、いつまでも咲いていました。

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