「空の青さを知る人よ」の良さを知る人よ!

 フランツ・カフカの「変身」という小説が好きです。勤勉な銀行員だった主人公は突然、朝起きると毒虫になっていた。巨大な毒虫で、部屋から出られないくらいでかい。おぞましい姿で、驚いた母親にりんごを投げつけられる。りんごが身体に食い込んで、腐る。彼の愛する家族は、息子が毒虫になったことで混乱し、困り果てる。でも、毒虫になった主人公が死んで、家族に平和が訪れる。
 これは、世界で初めての不条理小説だと言われてる。

 さて、本題…アニメ映画「空の青さを知る人よ」を見てきました。
 とても面白くて、素晴らしくて、そして泣ける。おぢさんは最近涙腺が緩いので、こういう映画を見ると泣いてしまいます。小さい頃からアニメに馴染んできてるせいか、映画も実写よりアニメの方が泣けちゃうんですよね…感情移入度合いが違うんだと思います。
 あまりネタバレはできませんが、未見の方は是非見てみてください。オススメです!

 あらすじを紹介すると、秩父の田舎に高校生たちのバンドがあって、主人公あおいは5歳の頃から姉あかねの同級生たちのそのバンドに憧れていました。しかし、不幸にもあおいの両親が事故で他界、姉妹二人きりで取り残されてしまいます。
 それから、13年…18歳になったあおいは、多感な高校三年生。
 あのバンドのリーダーだったしんの(慎之介)に「お前うちのベースやれよ!」と言われたままに、ベースを弾く女の子になっています。そして、自分を育てるために働くあかねを解放してやるために、東京でバンドマンになる夢を見ているのでした。
 そんな時に、東京でミュージシャンを目指した慎之介が、大物演歌歌手のバックバンドメンバーとして戻ってきます。彼は実は、あかねとは恋人だった様子…そして、あおいの前には何故か、13年前の高校生そのままの慎之介、あの日のままのしんのが現れる!

 この物語の核は「大人の慎之助と、その13年前の姿のしんのが、同時に姉妹の前に現れる」というとこです。で、現在の時間軸にありえない存在、しんのは「かつてしんのたちが練習場所にしていた山中の御堂跡地から出られない」というルールがあります。見えない壁で出られないんですね。
 昨今のアニメ映画では、こういう非日常の文法が目立つ気がしますね。
 代表的なものだと「君の名は。」「天気の子」なんかがそうで、もう少し前だと「時をかける少女」「おおかみこどもの雨と雪」「ペンギン・ハイウェイ」もこの系譜なのではと思っています。
 これ、面白いんですけど、不条理小説の文法なんですよね。
 ちょっとそのことを交えて、お話しようと思います。

 まず「非日常」を作中でキャラクターに与える。そして、その理由は追求しないし、説明もしない。因果関係を匂わせても、その推理や解明はあまりされません。しかし「非日常に遭遇したキャラクターの心情や言動、決断」は、非常にリアルに描かれます。これも、特徴的なものとして似てる気がしました。
 非日常にキャラクターが接してる時、日常にいる自分たちとは違うシーンが生まれる。それをリアルと感じる程度には、日常から地続きだし、今まで日常にいたキャラたちが七転八倒する。
 そして、キャラクターたちが自分で結末を手に入れる。
 これは「非日常が解消され、日常が戻る」とイコールではありません。
 よしんば非日常が解消されても、その「何故?」「どうして?」は語られません。
 このタイプの作品は「非日常が手段で、キャラのドラマが目的」と、はっきりしている。だから、例えば「時をかける少女」でどうしてタイムリープが突然できるようになったかとか、「君の名は。」で何故突然入れ替わりが行われたかは、深く説明がなされません。「天気の子」だって、大まかに天気を操る少女の力への言及はあっても、そのタイミングや「なぜ彼女なのか」は、最後まで語られることはなかったのです。
 勿論、カフカの「変身」でも、主人公が毒虫になった理由は語られない。

 多くの物語員は「5W1H」が存在すると言われています。しかし、その中の一つである「ドラマの発端のWhy(何故)」がないんです。キャラクターは、理由もなく、必然性もなく、非日常に叩き込まれます。それがあとから必然になることはあっても、基本的に「何故主人公なのか、何故ヒロインなのか」は、結構謎なまま終わることってあると思いますよ。
 この手法が許容され、あまり違和感なく大衆娯楽としてエンタメできてること。これは俺は、とても素晴らしいことだと思います。カフカの「変身」は、あまりに唐突であり、その説明もなく、合理性も必然性も語られなかった。当時の人はびっくりした筈です。でも、今はアニメの世界ではこれが受け入れられてる。
 良くも悪くも、アニメファンの懐が深くなったんだと思います。
 それが一部の一般層にも広がってる手応え、これはありますね。
 人はストーリーの整合性より、ドラマの熱量を求めているのかもしれません。

 あ、さて…「空の青さを知る人よ」は、本当に面白かったです。登場人物のみんなが優しいんだけど、優しさを出すためにはなにかを犠牲にしなきゃいけない。犠牲にするものが自分の中にないと、優しさを忘れてしまう。でも、本当にその人個人が「これを犠牲にするのは苦しい、嫌だ、悲しい」と思ってるかどうか…それを、他者が簡単に決めてはいけないのかもしれません。
 主人公のあおいは、自分を育てるために全てを捨てた姉あかねを想ってる。
 そのあかねは、妹のあおいに全てを注ぎながらも…去った慎之介を想ってる。
 慎之助は東京ですれて擦り切れて、あおいや音楽を想ってた気持ちを失っている。
 そして、あの日のままで現れたしんの少年は、やっぱりあおいを一途に想っている。
 犠牲や献身を強いること、これは非道です。でも、自らそれを申し出ることは尊いし、それに頼る悔しさや苦しさは人の心そのものです。そして…人知れずなにかを捨ててなにかを守った、そういう人だっています。そういう人たちの幸福の物語なんですよ。

 俺も一時期荒れてた時期があって、それが二十代後半から三十代と、とても恥ずかしい大人でした。今は、色々諦めたりとか、色々覚悟が決まったりしてるので、まあ「四十にして惑わず」ですか(笑)
 実は、我が家は両親が盲目、視覚障害者なんです。
 山形から嫁に来てくれた母は、実は姑(祖母、父の母)とその親族に陰湿ないじめを受けていました。それを少年時代の俺は、全く気付かなかった。祖母は、あの有名な新興宗教の信者で、息子が入信しないならば、息子の嫁には入信してほしかったのです。あと、健常者の嫁がほしかったのです。
 俺は、知りませんでした…母が影では泣いてたことを知りませんでした。
 祖母は、自分の息子(俺の父)が自慢でした。少年時代の父は、とても優秀な子供で未来に溢れていました。しかし、病気で視力を失い、祖母はそのことを酷く嘆きました。かわいい我が子の不幸が、母として悲しかったんだと思います。そんな祖母に狡猾に忍び寄ったのが、新興宗教でした。信心を重ねれば目が治るよ、と言われたのです。
 そのことも俺は、知りませんでした。
 祖母なりに、なにもかも投げ売って、新興宗教へと献身を続けました。その結果、嫁に来た母は入信を拒んで虐待され、家族のために身を犠牲にして耐え、そのことを決して俺と妹には見せませんでした。
 我が家は不幸でした。
 でも、俺はそうではなかった。
 それは、母のおかげだと思います。母の苦しみを知らず育った俺は後年、自分を責めました。のほほんと暮らしていた少年時代を悔やんだのです。でも、友人が「それはながやんが駄目なんじゃなくて、お母さんが凄く頑張ったんだよ」と言っくれました。
 献身も犠牲も、美しく尊いものですが、とても残酷で悲しいものです。

 あ、それはそうと…面白いのが、主人公あおいの姉、あかねです。あかねは周囲からは、元カレの慎之助との決着を望まれてます。周囲はみんな「両親が突然死んだために、彼氏と上京して進学する夢を絶たれた女性」って想ってるんですね。その思いが一番強いのがあおいで、シスコンをこじらせてる感じです。
 で、あかねはそういう素振りを全くみせてないとこがいいんですね。
 みんな「恋心、燻ってんだろ?」「私が姉を縛る鎖なんだ」みたいなこと想ってる。実際、そう思って行動し、どうにかあかねを元カレの慎之介とくっつけようとする。でも、当の本人は(今でも恋心があるんですが)全くそういう素振りを見せない。むしろ、周囲のそういうお節介をやんわりと遠ざけてる。
 あかねは、良妻賢母を絵に描いたような働く女性で、これぞ理想のシングルマザー(あ、シングルシスターか)なんですが…あまりにもラジカルでポジティブ、そして肝が座ってるパーフェクトヒロインに見えるんです。それがまた、いいんです。そういう彼女の真の姿も、この映画の魅力なんですね。
 勿論、女性の幸せが全て「好きな男性と結ばれること」だとは思いません。
 でも「好きな男性と結ばれた女性」って、心から祝福できる幸せだと思いませんか?

はじめまして!東北でラノベ作家やってるおっさんです。ロボットアニメ等を中心に、ゆるーく楽しくヲタ活してます。よろしくお願いしますね~