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【上田】滞在レポート by 私道かぴ _ 生きることとアートの呼吸〜Breathe New Life


◎研修プログラム参加動機

京都を中心に活動する「安住の地」という団体におります、私道かぴと申します。演劇の脚本や演出を務めています。
今回 NAGANO ORGANIC AIR  短期滞在研修プログラム「生きることとアートの呼吸〜Breathe New Life」に応募した動機は、コロナ禍で浮き彫りになった問題への解決策を学べるのではないかと思ったからです。
問題は、大きく分けると以下の二つでした。

・コロナ禍で考えた「活動場所」のこと
コロナ禍で、関西では稽古場として使用していた施設が休館になるなど、それまでとは打って変わって創作が難しくなっている現状がありました。一方で地方では変わらず稽古環境を確保できている団体もある現状があり、自分の中にあった「都会に近い方が文化に接する機会が多く、創作もしやすい」という概念ががらがらと崩れていくのがわかりました。そこで今回このプログラムに参加することで、「地方に創作の場を持っている人は、どのような環境で創作しているのか」をこの目で確かめたいと思ったのです。
・コロナ禍で考えた「芸術の意味」のこと
コロナ禍で聞かれた言葉に「芸術は不要不急」というものがありました。厳しい言葉だなあと思う一方、どこか「確かにそう言われても仕方ない部分はあるよなあ」と納得してしまった自分もいました。芸術は直接誰かを助ける機会があまりないものですし、あったとしても見えにくいと思うからです。そんな中で、「芸術はこんなにも社会の役に立つ」と説明する人もいました。経済効果があって、社会にどれだけ貢献して…など。でも、そこにも何かもやもやするものを感じるのも事実でした。では、実際に芸術はどんな意味があるのか。地域に根差した芸術活動が多く行われている長野で考えてみたいと思いました。

◎滞在中に巡ったところ
驚いたのが、今秋に長野県内では芸術祭が数えきれないほど開催されていたことです。プログラムを通して見学させてもらったものだけでもかなりの数でした。例えば、大町市を舞台に国内外の美術作品を楽しめる「北アルプス国際芸術祭」、アーティストが滞在制作を行い、地域とアートの密接な関係を模索している「木曽ペインティングス」、東京藝術大学と東御市と地域による連携事業「天空の芸術祭」、小諸の街中を使って展示を行う写真展「PHOTO KOMORO」、そして長野県内の各市町村で行われている「NAGANO ORGANIC AIR」。特色も違えば規模もそれぞれ異なる芸術祭がたくさんありました。
また、滞在中にはこれらの芸術イベントの他にも、第二次世界大戦末期に大本営を移す名目で建設された「松代象山地下壕」や、戦没画学生の絵画や遺物を展示する「無言館」など、長野に残る戦争遺構も巡りました。
これらの経験を通して、考えたことを記したいと思います。

◎特に印象深かった場所

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【北アルプス国際芸術祭】
今回は同じく参加者のダンサーの横山さんとご一緒する機会が多く、そして横山さんはこの「北アルプス国際芸術祭」の開催地である大町市出身ということで、一緒に回る中で常々「もし自分の地元が突然このような規模の大きな芸術祭を始めたら、どのように思うのだろう」という気持ちがありました。
私なら「自分の好きな地元はどのように変わってしまうのだろう」と不安は尽きないだろうと思い、疑問を持った状態で訪れたというのが正直なところです。しかし、作品を観るにつれて徐々に変わっていきました。中でも印象深かった3つの作品での経験を取り上げます。

・心田を耕す/ヨウ・ウェンフー(游文富)

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白、黄色、緑とグラデーションを付けた竹ひご50万本を、実際の田植えと同じように植えていった壮大な作品。それでいて、言われなければ綺麗な田んぼだと思って通り過ぎてしまうような繊細さもあります。地域住民と一緒に作り上げた作品だと聞き、創作風景を想像して一層印象が深まりました。近所の方なのか、年配の男女が数人で話ながら作品を観ていて、田畑を仕上げる人間の姿と、作品を共作する姿と、それをみんなで観て満足そうにしている姿が重なりました。「とても一人ではできない仕事」だと思いました。

・アキノリウム in OMACHI/松本秋則

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かつて観光地として栄えた面影が残る大町温泉郷の「酒の博物館」全体を使った作品。竹で作ったオブジェが奏でる軽快な音色が館内に響きます。音に誘われて次の部屋へ歩いていくのが楽しい作品。最後の部屋には水と竹、影絵を使ったインスタレーションがあり、足を踏み入れた瞬間「わあ」と声が出る美しさでした。後から入って来たご婦人が「わあー…きれい…」とつぶやくのが聞こえ、思わず「きれいですね」と話しかけると、「きれいね~」と笑顔を見せてくれました。知らない者同士が同じものを見て同じように言い合えるだけで「ここに来てよかったな」と思える、この感じ。鑑賞者と作品が平等な関係性にあるように思いました。

・おもいでドライブイン/淺井真至

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木崎湖畔の空き店舗を使った作品。他イベント【木曽ぺインティングス】でも同様に、空き家の問題をうまく活用した作品が多くあります。空き家になる前に蓄積されていた空間としての濃度にまず圧倒される感じがありました。そこに作家のエネルギーが上乗せされて、遠くから建物を見るだけでも異様な光を放っています(文字通りネオンが光を放っているのですが)。受付にいらっしゃったスタッフの方がとても気さくだったので話してみると、市役所の職員の方でした。職員の方々もこの芸術祭のボランティアとして数々の現場にいらっしゃるそうです。「自分の町で芸術祭が始まると知ったとき、どう思いました?」と聞くと、「このままではいけないから、何かはやらなきゃいけないから。なんでもいいのよ、スポーツ大会でも芸術祭でも」と言います。「何にでも反対する人はいるから。でも、やってみないと始まらないからね」という声が、明るくて少しほっとしました。どこにでも変化が怖い人はいて、それでも頑張ろうよと状況を動かす人もいます。ボランティア不足などもあるらしく、まだ始まったばかりで、これから問題もたくさん出てくるだろうとも思います。それでも問題意識を持って前向きに進めていこうとする人がいると知り、頼もしく感じました。何でもいいけど、たまたま選ばれたのがアートなのだとしたら、私たちはそこで何をできるのか。「いい作品をつくる」はもちろんのこと、それだけで終わってはいけないと感じました。

【NOA@小諸「果樹農園直売所シアター『破戒』」】

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NAGANO ORGANIC AIRの小諸地域で行われていたプログラムで、直売所兼劇場で繰り広げられるリーディング公演『破戒』を観劇しました。千葉の梨農家であり演出家の石井幸一さんと、小諸のブルーベリー農家であり劇作家の黒岩力也さんの共作です。劇場自体も黒岩さんの手作りということで、「劇場って人の手で作れるんだ…」とまずそこに衝撃を受けました。出演者の中にはブルーベリーの収穫を手伝っている方が何人かいらっしゃるということで、農家の創作と演劇の創作が地続きなのがいいなあと思います。
また、最も感動したのが近所のお年寄りの方がたくさんいらしていた客席です。「ケシの花、芽出たかしらって言ったけどあれまだかね?」と開場中に電話する方、「いつもはこの時間はもう寝る時間だから」と眠気を宣言する方、出演者が出てきたのを見て「あれ、もう始まってはるん?」と隣と確認し合う方。上演後に「ケータイの電源を切るっていうのを知らない人もいるから」という話を聞きましたが、演劇についてあまりにも慣れ過ぎている側(そして勝手にルールを作ってしまっている側)からすると、そこにはたくさん顧みなければならないことがある気がました。むしろ演劇を、隣とおしゃべりしてもいいし、途中でトイレにたってもいいし、終わってから「あれどういう意味?」と作った人に聞きに行ってもいい、そういう仕様にする選択肢はないのか。気軽に観られる演劇とはどういうものなのか。
黒岩さんのお話に「こんなに近所の方が来てくれるようになったのはここ最近で、それまでは『何か変わったことをやっている人』という感じだった」という言葉があり、これまでのご苦労も垣間見えた気がしました。しかし、劇場の改良を重ねるように、諦めずに工夫を重ねた果てにいまの状況があるのだと思います。お客さんの「なんかここで見た」「すごく大きい声を聞いた」「非日常を人と一緒に経験した」ということをもっと純粋に大切にできる劇場が、これから出来上がるのだという期待が満ちていました。

【木曽ペインティングス】

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地域に根差した活動を行っているプロジェクトです。宿場町を中心に開催されるアートフェスで、今年で5回目。丁度オープニングイベントを拝見し、『何か変わったことをやっている人たち』を観る地域の方々の様子も少しわかりました。オープニングイベントは住民の方々の「スコップ三味線」で幕を開けたのですが、これがとてもおもしろかったです。スコップを叩いて音を出すと言うゆるさの中にも、こだわりや本気な部分が垣間見え、それが何ともいいのです。演奏後「持ってごらん?!重いよ?!」と言い、観客にスコップを持たせながらはけていくご婦人たちのことを一瞬で好きになりました。住民の方々が滞在アーティストのパフォーマンスを、近所の子どもへ向けるような優しい目で「楽しそうだねえ〜」と見守っています。その関係性を観ていると、回数を重ねるにつれ、こうして地域のアートと滞在者のアートが交流する場を確実に育んで来たのだという力強さを感じました。

【松代象山地下壕】

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最後に、芸術祭ではないですが「松代象山地下壕」のことを記しておきたいと思います。第二次世界大戦末期に、極秘に天皇をこの地に迎えて、最終決戦の場として築いた壕のことです。硬い岩をダイナマイトで爆破しながら堀り進めた内部は、碁盤の目のように張り巡らされており、膨大な広さ。労力として朝鮮や日本の方が強制的に動員されていたようです。一般に公開されるようになったのは最近のことだそうで、内部には労働の痕跡や、岩を運ぶトロッコの跡などが生々しく残っていました。日の光が届かない場所なのでじっとりとした雰囲気があるのですが、それ以上に「ここにかつて居た人々の思い」を想像して心が重くなる時間でした。あまりにも理不尽に集団に働いた力に思いを馳せざるを得ず、空気の温度が強烈に記憶に残っています。


◎芸術と地域、これからどうするか?

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ここに書ききれなかったものも多くありますが、様々な芸術祭を観た後でふと思い出したのは、北アルプス国際芸術祭で観た作品「心田を耕す」と、松代象山地下壕の姿でした。それぞれを観た時には全く思い至りませんでしたが、田んぼのアート作品と地下壕は実はとても近しいのではないかと感じたのです。どちらも、たくさんの人の労力を経てできあがったものであり、何かひとつのものを作るという点では同じです。しかし、やはり大きく違うのは背後にいる人々のことです。その造形物の裏に、何か無理を強いられた人はいないか。正しく人々が力を発揮できていたのか。人が力を合わせて作り上げるものは、すばらしい芸術作品にも、負の遺産にもなりうる。人間の創造の可能性はすさまじく、だからこそ裏に何か無理はないか、自覚的になる必要があると思いました。

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そして、これは芸術祭について考えた時に常々感じていることにも通じるところがあります。芸術祭を開催する上で、不安を感じている人はいないか。無理を強いられている人はいないか。参加するアーティストとしても、現地に観に行く観光客としてもそのことに常々、思いを至らせる必要があると思います。
そして、時折こういった「よそ者(アーティストや観光客であること)」を超えたところで思いがけない出会いが待っている場合もあります。それは、会場で見知らぬ者同士が言葉を交わせるような、全く芸術に触れてこなかった方のふとしたきっかけになるような、制作者が自分たちの勝手に決めたルールに自覚的になるような、そうした機会です。
芸術祭には、しばしば強さが求められます。それは「経済効果がどれくらい」「来場者数はどれくらい」といった数値です。もちろん大切ですが、そこを目指しつつ、やはりその土地での人々の営みに目を向けられる場所を目指さねばならないような気がしています。
そして自分は、いい意味でよそ者になれるように、土地の記憶を、人々の気持ちを、想像できる存在でありたいと思います。

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今回の滞在を経て、「地方と芸術」という枠組みの中で、地元の方も、滞在アーティストの方も同じように試行錯誤しながら共に場づくりをしている様子をたくさん目にしました。まだまだここから、という状態ではあるかと思いますが、それでも確実にちいさな芽がたくさん出ています。

私もこれから活動を続ける上で、こうした芽を育てる一員として関わらせていただけるよう、日々頑張りたいと思います。

私道 かぴ Shido Kapi(劇作家・演出家)
京都を拠点に活動する団体「安住の地」所属。若者の未婚問題やゲーム依存症をテーマにした作品など、人々の生きづらさを描いた会話劇を発表。安住の地では、作家・岡本昌也との共同脚本・演出にて創作も行う。お寺やギャラリーなど劇場以外の場所でも積極的に公演を行っている。2020年は無言劇『 であったこと』、映像劇『筆談喫茶』など、コロナ禍の現状を活かした新しい劇を創作した。APAF2020 Young Farmers Camp修了。

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