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私が旅に出る理由

プロローグ(vol.1)

2016年9月6日。

私は38歳になっていた。

この歳になると、周りの友達は、皆、結婚し、子育て真っ盛り。

そんな友達の中でも、

「この子は結婚しないよね?」

私のなかで、勝手にそう思っていた戦友とも呼べる友人たちが、38歳を前にして、次々と結婚した。

彼女、もしくは彼らは、バリバリのキャリアパーソン。

海外出張で、世界中を飛び回っている子や、日本のありとあらゆる場所を飛び回って仕事をしている子ばっかりだった。

30歳になる手前、「29歳までには結婚しないと!信仰」みたいなものがあって、29歳のとき、友人のほとんどが結婚した。

それが、結婚ラッシュ第一陣。

そして迎えた、結婚ラッシュ第二陣。

それが、前述のバリキャリパーソンの友人たち。

彼女、もしくは彼らは、恐ろしいほどに忙しく、責任のある仕事を任され、

もちろん、たくさんのお金と華麗なる肩書きを持っていた。

そして、ほとんどが、豊富な恋愛経験をしていた。

当然、この友人たちにも「結婚」するチャンスはあったのだ。

でも、結婚しなかった。

理由はそれぞれだったけど、結婚しなかった。

だから、彼女、もしくは彼らが、自由な「お金」と、華麗なる「肩書き」を捨ててまで、今さら「結婚」という選択肢を選んだ時は、正直、ビビった。

で、その時、私はどう考えたかというと、

みんなとは違う?

まず、そう思ったんだ。

だって、その時の私といえば、彼氏もいなければ、お金もなければ、華麗なる肩書きもなくなっていた。

そう、約2年前に、高年収の一流企業を辞めて、独立したのだ。

これは、実は「誤算」だった。

「いつかは独立したい」とは、思っていたけれど、それはもっと先のことだと思ってた。

そう、私の独立は、「準備が整ったから」といったものではなく、「独立せざるを得ない」かたちで始まった。

その理由は、詳しくは書くと長くなるので割愛するけれど、

とにかく「誤算」だったのだ。

お金もない。仕事もない。会社という肩書きもない。

あるのは、コツコツ培ってきた「人脈」だけ。

だから、必死になって「営業」した。

かつての仕事仲間たちに「仕事をください」と挨拶に行ったのはもちろん、

もう、飛び込みみたいな感じで、何の繋がりもないところへ「仕事をください」と、すがるような気持ちで、出向いて回ったりもした。

もう「プライド」なんか、どうでもよかった。

ていうか、そんなもん、持ってたら、何も始まらなかった。

だから捨てた。

なのに、結果はゼロ。

「世の中そんなに甘くない」は、本当だった。

そして、ようやく気づく。

かつての仕事仲間と「仕事」していたのは、「一流企業に属している私」であって、「会社という肩書きのない私」ではなかったってことに。

つまり、、、、

強制的リセット

半ば強制的にリセットされた感じだった。

一流企業で、女1人では使い切れないほどの年収をもらっていた私。

物を買うときなんて、値段なんか見ずに買っていた。

高機能で何十万もする洗濯機なんかも、

「ボーナスの何分の1くらいの値段だし、ま、いっか」

みたいな感じで買っていた。

「旅行」=高級リゾートでしょ?

みたいな感じで、5つ星クラスのホテルに中期滞在は当たり前。

トップの写真は、バリ島でも有名な高級ホテル「The Legian Bali」のエントランスロビーから見える、プライベートビーチの写真。

全部屋スイートルームクラスの、この高級ホテルを私は「定宿」にしていた。

女子会の、ランチの値段の平均3000円。

※お酒は含まず、軽い前菜、さほど美味しくもないけれど見た目だけはいいパスタ、軽いデザートとコーヒーだけで、この価格。

「この雰囲気を味わえるなら、安い安い」

「だって、話題のお店だし、行こう行こう」

そんな日常。

そんな感じが当たり前の日常。

それがどうなったかって?

「この100円は本当に必要な100円か?」

みたいになった。

1本の缶ジュースを買うのにも、10円でも安いところを探したし、

そもそも「これ、必要だっけ?」って、110円の缶ジュースを買うのも躊躇した。

「カフェ」に入るのは贅沢なことになった。

「カフェ」って行っても、ドトールとか、エクセルシオールとかの、1杯200〜300円レベルの「カフェ」。

「カフェ」に仕方なく入る時は、1番コスパのいい飲み物を頼んだし、

長くいる時は、「おかわり」じゃなく、

セルフサービスの「お水」がオトモ。

そんな生活がしばらくの間続いた。でも、

価値観の崩壊って、好き

不思議とそんな「価値観の崩壊」は、嫌なものでも何でもなかった。

むしろ「ありがとう」みたいな感じ。

だって、値段をきちんと見て買うことの大切さに気づいたし、

「それは本当に必要か」

って、当たり前だけど、モノで溢れかえる東京にいると、ついつい見失いそうになる考え方も戻ってきた。

お金を有り余るほど持っていて「何も考えない自分」から、

お金なんかほとんどなくて「あらゆることを考える自分」に。

もちろん、仕事のことは、いつも考えてはいたけれど。

振り返ってみると、こんな感じの「価値観の崩壊」は好きだった。

というか、「価値観の崩壊」が、自分をかたちづくっていたりした。

そのことに気づいた。

小学生の時に「バブルが崩壊」し、日本を代表する銀行まで破綻しちゃって、

ちなみに「ベルリンの壁」なんかも崩壊してる。

ついでに、自営業を営んでいた、裕福だった(らしい)ウチも、崩壊と言っていい状態までお金がなくなって、

おまけに「家庭」も崩壊しちゃってて、

父は、夜はほぼ毎日遊び歩いてて、弟は引きこもって、母はたまに泣いていた。

そんなんだから、物心ついたころから、母親は

「この家を継げると思うな、自立しろ」

と、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーと、言い続た。

ちなみに「代々継ぐことが義務づけされてた」くらいの家でした。事実、父は大学を出て、どこにも就職せずに、実家を継いでいる。

だから「とにかく働こう」「働かないなんて考えられない」って思った。

ここで「働き続ける自分」が確立。

次に考えたのは「じゃあ、何して働くんだ?」ってこと。でもさ、

何をする? どうやって?

そんな気持ちが不思議と湧いて出た。

せっかく働くんだったら、満足できることを仕事にしたいよね?

だって、ずーーーっと働くんだから。

「だったら、おまえは、何をしたいんだ?」

と、自分に問いかけ続ける日々。結構、いや、かなり真面目に。

だって、

奇しくも、就職“超”氷河期だったので、

何十社も受けて、1社も受からず「就活浪人」になる先輩はザラ。

そう、ありとあらゆる企業で、

「どうして、ここなんですか?」「あなたは何をしたいんですか?」

この、簡単なようでいで、大変難しい質問に答えられないといけなかったから。

しかも、真剣に。

ここでまた「価値観の崩壊」が起こる。

それまで私は、樹木医(樹医)になりたくて、農学部に進学。

樹木医になるんだとばかり思っていた。

でも、調べて見たら、応募資格者(樹木医になれる対象者)になるまで7年かかることが判明。

つまり、7年も、その仕事では食べていけないってこと。

「ダメじゃん」「自立できないじゃん」

13歳(中学生)から考え続けた「計画」が、20歳にして崩壊。

ちなみに「13歳のハローワーク」村上龍著 幻冬舎刊 という本もありますね。

7年間かけて考え続けたことを、1〜2年で考え直さないといけない。

私の時代は、就職活動開始時期には制限がなく、大学3年で就活始まりが当たり前だったので。つまり、その前に「考えてないといけない」状態。

焦る。

本を読みまくる。

自己分析系の本を読み漁る。

本当に焦っていたので「人に会って、知る」は、後回しになる。

そして、本のなかで出会った、この言葉。

「小学校高学年の時、得意だったこと、好きだったことを仕事にするといい」

そうか、そうなんだ。

で、その頃、得意なこと、好きだったことって何だったっけ?

こうして、私は、10歳の自分に会いに行く旅に出かけることになった。

それが、私の20〜30代を決定づける仕事と出会うことになるとは知らずに。。。。

そして、その仕事を「リセットしてもいいかもしれない」と思ってしまうことになるアラフォーの自分が未来にいることも知らずに。。。。

続きは、以下、プロローグ(vol.2)にて。

https://note.mu/nagao_heroe/n/n99d10c91dc29