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【罪赦された者の生き方】240421礼拝メッセージ


「罪赦された者の生き方」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

今日のテーマは、罪赦された人です。
罪赦された人。

本日は、キリストに罪赦された人について、2つのポイントから見ていきたいと思います。

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1、
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1つめのポイントは、罪赦された者は、愛の行いができる、という事です。

聖書は言います。
36:ルカによる福音書/ 07章 36節
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
37:ルカによる福音書/ 07章 37節
この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38:ルカによる福音書/ 07章 38節
背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。

36節の、あるファリサイ派の人、というのは後でシモンという名前である事がわかります。
彼が一緒にキリストと食事をしたいと願い、キリストは彼の願いに答えて彼の家に入り、食事をしました。
シモンがどういった目的でキリストと一緒に食事をしたいと言ったかは書いていないので分かりません。
最近注目されているキリストという人を自分の家に招いて直接話をきいてみたい、という好奇心があったかもしれません。
またはキリストが本当に聖書通りの正しいことを言っているだろうか?と検証したい気持ちもあったかもしれません。
ただ、あとで彼はキリストのことを先生、と言っているので、一定の敬意はあったようです。

そしてシモンに招かれてキリストが食事の席についている時、ある一人の女性が入ってきました。
この街では罪深いと言われていた女性でした。
この街のほとんどの人から、あの女性?あーとても重い罪を犯した人ね、と言われるような人です。
どんな罪かは聖書に書いてません。
多くの注解者は、性的な罪、不倫などを犯したのではないかと推測しています。
そのような、罪深い女性が食事の席に入ってきました。

当時は、先生など人に物事を教える立場の人を家に招いて食事をする時は、その先生の話す言葉を他の人も聞けるように一般公開されていました。
今でいう講演みたいなもので、それがホールとかの会場でやるものではなく、家で食事をしながらするというものでした。
だからこの罪深い彼女も、キリストがシモンの家に来るということを噂などで聞いて、この家に入ってきたと思われます。

そして彼女は、
37節 香油の入った石膏の壺を持って来て、
ルカによる福音書/ 07章 38節
背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。

当時の食事というのは、今みたいに椅子に座って、テーブルの上にある食べ物をパクパク頂くというものではありません。
当時の食事は、※このように、食べ物を並べた低いテーブルを囲み、体の片側を下にして寝そべって、もう片側の手で食べ物をとって食事をしていました。
今で言う行儀の悪い食べ方です(笑)
なので食事をしている時の足は、今の私たちが食事をするようにテーブルの下にあるのではなく、周りで見ている人々の方に伸ばされた状態になります。
だから罪深い女性が、キリストの足元に立つというのは自然な動きでした。

しかしそこで彼女のしたことは、異常な行為でした。
キリストの足を涙で濡らしながら、自分の髪の毛で拭って、接吻をして香油を塗ったのです。
当時の社会では、人前で髪を結わずに下ろした状態にいる、ということはありえないことでした。
ユダヤの婦人にとっては、皆髪を結びあげる事が公然のマナーであったからです。
この女性が長く垂れた髪を公衆の目に晒し、しかもそのままその髪の毛で足をふくという行動は、あまりに常識外れな行為でした。
それを見ていたシモンは思いました。

9:ルカによる福音書/ 07章 39節
イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

ファリサイ派というのは、分離する者、という意味があります。
何を分離するのか。
それは自分たちが、他の人とは違って、宗教的にきよい生活をしていくことです。
神の定めたものをきちんと守っていく。
礼拝を守る、献金をする、他者に良い行いをする、、、などとても真面目なクリスチャンのような人たちです。
それによって自分たちは、きちんとしていない罪人とは違う者である、という意識・感覚を持っていました。
だからファリサイ派の人たちは、罪人と言われる人たちとは、分離して、触れないようにしていました。触れたら汚れてしまうと思っていたからです。

そのためファリサイ派の彼からしたら、罪人と言われていた女性がキリストの体に触れて、足を拭くことは、キリストを汚してしまう行為に見えたのです。
本来、預言者は神の言葉をもって罪人を裁くことが使命なはずではないか。
もしキリストが本当の預言者で、彼女の素性を知っているなら、この女性と離れるはずだ、裁くはずだ、と。
しかしキリストは、この罪深い女性の異常な行動を受け入れ、咎めることはしませんでした。
だからシモンは、キリストのことを本当の預言者ではないかと疑うようになりました。

しかしキリストは預言者以上の方、神の子なのでこのシモンの心を読んでいました。
そしてシモンにたとえ話をし始めました。

40:ルカによる福音書/ 07章 40節
そこで、イエスはその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
41:ルカによる福音書/ 07章 41節
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:ルカによる福音書/ 07章 42節
ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43:ルカによる福音書/ 07章 43節
シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、「あなたの判断は正しい」と言われた。

1デナリオンは、当時1日分の給与です。
わかりやすく1日の給与を1万として、1デナリオンは1万円。
なので500万と50万の借金をしている人の話です。
ところが二人とも借金を返すことができませんでした。
だから、金貸した人は借金を帳消しにしました。
それによって今まで多額の借金があった二人がいきなり、無かったことになりました。
負債が消えたのです。
その時、500万と50万借金していたどちらの方が、帳消しにしてくれた金貸を愛するか、とキリストは問われました。

ここでのポイントは、金貸しが一方的に借金を帳消しにした、ということです。
借金をしている人がお金を貸してくれた人に何か良いことをして、その結果帳消しにしたわけではありません。
あくまで金貸が一方的に借金を赦したのです。

このたとえは、金貸しが神、キリストであり、借金している人が人間です。
この箇所の状況であれば、罪深い女性が500万を借金している人にたとえています。
神に対して罪という借金があった。
しかしそれを神が、一方的に帳消しにして下さった、赦して下さった。
多くの罪、借金をしていた町で罪深い女性が、神、キリストによって赦され、帳消しされたのです。
そしてキリストは続けて言われました。

44:ルカによる福音書/ 07章 44節
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。
45:ルカによる福音書/ 07章 45節
あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。
46:ルカによる福音書/ 07章 46節
あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
47:ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

罪深いと言われていた女性が、ある時自分の罪がキリストによって赦されたことに気付きました。
どのタイミングかはわかりません。
おそらくキリストが宣教活動されている中で、ある時この女性がいて、キリストの罪の赦しの話を聞き、こんな罪深い自分でも赦されることが分かったのだと思います。
そして今まで500万円借金していた人が何もしないのに帳消しにされたら、50万円借金していた人より赦してくれた金貸を感謝して愛するように、自分の多くの罪を神の名によって赦してくれたキリストに対して溢れる愛の思いが出たのです。
彼女にとってその溢れる想いは、涙でキリストの足を濡らして髪の毛で拭った行為でした。
その涙は、どのような涙であっただろうか。
今まで自分がしてきた罪が赦された嬉しさによる涙、感謝の涙かもしれません。
または、こんな自分の罪を赦して下さったキリストの愛を知るからこそ、これほど自分を愛してくれていたのに、なぜあの時あんなことをしてしまったのか、という自分の罪に対して悲しむ涙かもしれません。
様々な感情が含まれる彼女の涙だったと思います。
でもそのような涙を、キリストの前では人目を気にせずに流せるようになった。

ある人は、教会に行って救われたら涙もろくなったと言いました。
素直に感情を表現できるようになった、と。
それは、どんな罪深い自分でも、赦され受け入れられている安心感からくる感情の素直な現れだと思います。
日本では特に昔は、男は人前では泣いてはいけない、というのが美徳とされてきました。
もちろんこのようなことが必要な場面もあるかもしれません。
しかし、罪赦された者は、キリストの前では存分に泣けるのです。
誰の目も気にせずに泣ける。

罪深い彼女自身、今まで人目に晒されて生きてきたでしょう。
周りから後ろ指刺されて生きてきた。
あなたはひどい罪を犯した人だ、とんでもない人間だ、そのように言われてきた。
または、もう一人の自分自身からも責められていたかもしれません。
「あなたって、あんなことやこんなことをしてきた最低の人間ね」とそのように自分を何度も何度も責め立てられていたかもしれません。
しかし今やキリストによってそんな自分が罪赦されたことを聞いたのです。
取り返しのつかないことをしてしまった自分の罪が赦される経験をしました。
その罪赦された解放感というのは、まさに多く借金をしていて非常に重荷を感じていた人が、突然その借金が帳消しになったような想いでしょう。
その溢れる思いから、周囲の目から解き放たれて彼女は人前で髪をほどき、キリストに香油を塗りました。
彼女は、自分がキリストにできることを心をこめてしていったのです。

そう、キリストによって赦された者は、人目から解放されて、キリストに愛を表して献げていく事ができるようになる。
そこには、他の人がどれだけキリストを愛したのか、奉仕したか、捧げたのかなどの周囲の目に気を遣う必要はありません。
そのような周りの目から解き放たれる。
キリストが自分の罪を許すためにどれだけの犠牲を捧げてくださったか、そのキリストに対する愛の現れです。
その中で、今自分ができることをキリストに捧げていけばいい。
それがキリストによって赦された者の生き方です。

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2、
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2つめのポイントは、罪赦された者は、平安のうちに生きていく、ということです。

キリストはたとえ話を言われた後に続けて言いました。
ルカによる福音書/ 07章 48節
そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。

これを見ると一見、彼女が自分の髪の毛でキリストの足の汚れをとった行いによって、キリストはこの女性に「あなたの罪は赦された」と言ったように見えます。
キリストの足を綺麗にするという良い行いをしたから、その行為に応じてあなたを赦す、と。

しかし、たとえ話のポイントから言うと、金貸が借金を帳消しにしてくれたからこそ、赦された人は金貸を愛するように、あくまで彼女の罪が先に赦されて、そこから愛の行いにしたということになります。
ではなぜ、キリストは改めてこの罪深い女性に「あなたの罪は赦された」と言われたのでしょうか。

私たちはキリストによって救われる時、信仰告白というのをします。
自分の罪を認め、そしてそのためにイエス・キリストが十字架にかかり、自分の代わりに罪の罰を受けてくださった事、そして代わりに死なれただけでなく、キリストがその後甦ったように、私たちもキリストが再臨される時、新しい魂と新しい体が与えられ、永遠に神の家族と生きることを信じます。これが信仰告白です。
この時、救いの御言葉というのを与えられることがあります。
みなさんの中でも救いの御言葉があるという人もいると思います。
もちろんこれが無くても救いが無くなることはありません。
しかし歴史的に教会は、救いの御言葉を持つことを重要視してきました。
信仰告白をして救われたなら、なぜわざわざ御言葉が必要なのか。
それは、キリストによって罪の赦しを信じた信仰生活を歩む中で、たとえ自分の救いの確信が揺らぎ、疑うような事があっても、私は確かにこの御言葉によってもう救われている、罪赦されているということを確信し続けるためです。

この罪深い女性は、もうすでにキリストによって罪赦されたと信じていました。
だから赦されたことへの思いを表すために、応答としてキリストに油を塗り、足を洗いました。
それでもキリストが、もうすでに赦されている女性に改めて「あなたの罪は赦された」と言われたのは、今後女性が罪赦され、救われたことを確信をもって歩み続けることができるために言われたと思います。

これからこの女性が生きていく中で、周りからの未だにある彼女に対しての偏見であったり、また、過去の自分のしたことを思い出しては、本当に自分は赦されているのか、救われているのか、と疑ったりすることがあったかもしれません。
しかし、改めて「あなたの罪は赦された」と言って下さったキリストの言葉が、御言葉が、この女性のその後の信仰生活を支えていく。
彼女はこのように言える。
「私が罪赦され救われたのは、私の思い込みではない、勘違いでもない。
イエス・キリストが確かに私に、「あなたは罪赦された」と言って下さった。
この御言葉に立って私は罪赦された者として生きる」と。

だからこの後キリストは女性に告げます。
50:ルカによる福音書/ 07章 50節
イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

キリストは言います。
「あなたの信仰があなたを救った。
たとえこれから、自分の救いを疑うことがあっても、周りの人からあなたが過去にしたことを言われるようなことがあったとしても、あなたはもう罪赦され、救われている。
あなたの罪が赦されたことを神の子である私が保証する。
だから安心して、平安のうちに生きなさい」このように彼女に言って下さったのです。

わたしたちも、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦されて甦りの約束を信じています。
その信仰によって今や救われている。
でも信仰生活を歩む中で、相変わらず罪深い自分自身を見る時に、本当に自分は赦されているのだろうか?救われているのだろうか?と疑い悩む事があるかもしれません。
しかしその時私たちは「あなたの罪は赦された」というキリストの御言葉に立って平安のうちに歩んでいくことができる、、、これがキリストによって罪赦された者の生き方です。

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結語 共同体 神の語りかけ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 07章 47節
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

今日は罪の赦しについて2つのポイントで見てきました。
1つめは、罪赦された者は、愛の行いができるようになる
2つめは、罪赦された者は、平安のうちに生きていく
という事です。

キリストは私たちに今日も言われます。
「私の十字架と復活によって罪赦された者よ。
莫大な借金を帳消しにされた者よ。
この喜びをもって、愛を表して生きていきなさい」と。

だから私たち教会は、今やキリストの十字架によって罪赦された者として、人目から解放され、今自分ができる愛をあらわしていこうではありませんか。
祈ります。

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祈り
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天のお父様、私たちはあなたに多くの借金、負債がある罪人です。
しかしそれをあなたの十字架によって帳消しにして下さいました。
あなたがすべて背負って下さいました。

この赦された喜びの故に、あなたに愛をもって仕えていくことができますように導いて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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